1990年の夏、私たち夫婦は大切な友人を事故でなくした。
夫が私を見初めてくれた時から私たちを見守ってくれていた人。夫の人生にはなくてはならない大切な親友だった。
折しも大きな台風が日本に押し寄せた後であり、私たちは友の元に駆けつけることができたけれど戻る飛行機の予約は満杯で、その地で足止めになる。
ようやく取れた飛行機は二日後。私たち夫婦はその二日間、友がこの地で愛した場所を訪ねまわった。
どこへ出かけても、彼の人柄を慕う人々に会う。世の無情と彼の無念を思い、私はただただ泣いていた。
そんな旅の中、二人で子どものことを話した。いつの日か私たちの間に生まれてきてくれるかもしれない我が子。その子が男の子だったら彼の名前の一字をつけよう。夫の一字と彼の字と、そして彼のような人に育ってくれるように育てよう。そんなことを話していたら少しだけ未来がみえた。大きな悲しみの淵で優しい光があたっているような、そんな気がした。
そしてそれからしばらくして1994年の秋の夜、私たちは初めて親になった。
静まり返った夜の病院で、大きく響いた産声を私は一生忘れない。
難産に苦しむ間、外は大雨だった。でも夫が出産に立ち会ったあと家に忘れてきたカメラを走って取りに行った時、外は雨上がりの綺麗な月夜だったという。
夫が息を切らせて病院にもどってくると、気がついた看護婦さんが彼を新生児室からだしてくれたのだとか。
難産に苦しんだのは彼も一緒。たくさんの赤や青い斑点を顔につけてピンクの毛布に包まれた彼を、恐々と抱く若い夫。看護婦さんが撮ってくれたそんな二人の写真を見ると、過ごしてきた日々を思い私は胸がいっぱいになる。彼はすぐに基行と名付けられた。
そしてこの親子がまとめた論文が。今年たくさんの方々に読んでいただけたのである。
大変ありがたいことであったけれど、一つだけ残念なことがあった。
Motoyuki と英語でかかれてしまうと、私たちがこの名前に込めた思いを伝えられない。友のご両親は、彼が生まれた時から孫も一緒と、いつも成長を見守っていてくれている。お母様は彼が生まれてすぐに、地元紙へ名前の由来のエッセイを綴ったほどであった。
ご両親に友の一字を見てもらいたかった。でも、それは叶わぬこと。仕方がないと諦めていた。
ところが、思わぬことで日本語版の方にも詳しく掲載していただけるという。
夫は感謝をこめて、漢字での名とともに余談ながら彼の名前の由来を伝えた。
編集者の方からは、日本語での表記は教育的な意義だけではなく、日本の研究者にとって特別な意味を成すこともあるのだと知ったと、喜んでいただけたそうである。
https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v15/n9/「必要かつ十分」という語句の誤用をなくすべきだ/93823#.W5kUofKt2iM.facebook
今日は彼の誕生日。
私はいつもあの日、友の棺の横で泣き崩れていたお母様の姿を思い出す。
あの日のお母様は、今の私ぐらいの年だったはずだ。母として自分が過ごした年月を思う時、あの日、一緒に横で泣いていた私とはまたちがう思いがこみ上げてくる。どれほどの悲しみ、苦しみだったことだろう。言葉にできない。
お母様は、私たち家族の安寧を、いまでも日々彼に祈ってくれているそうである。そして私は、彼のような人に育てと3人の子どもたちを見守っている。彼の命は続いてるのだ、彼の名前とともに。 ね、そうだよね。
Studio Hyacinth はボストン郊外にある小さな工房です。 針仕事をしながら、いろいろ思うこと、感じたことを綴っています。どうぞおつきあいください。
2018年9月16日日曜日
2017年9月8日金曜日
この街に支えられて
8月も終わりの日、街のフェイスブックにある投稿がのった。
ながらく洋裁店を営んでいる私のおばあさんが腕を怪我した。ドレスを仕上げなくてはいけない。誰か助けてくれる人はいないだろうか、お孫さんからの投稿だった。
すぐに、お客様でもある日本人の友人が、私を推薦してくれた。でも、数日が過ぎても何も連絡はない。もう誰かが決まったのだろうな。とそんな風に思いながら日々をすごして私もそんなことも忘れていた頃、突然電話がなった。
今からあなたのスタジオに行きたい。あってくれますか?と、腕を折られたご本人からの電話だ。
びっくりしたけれど、困っていらっしゃるのが息遣いからもわかる。すぐに快諾して来てもらう約束をすると、おばあさんはお孫さんに支えられながら、紙袋を持って我が家にやって来てくれた。
これがそのドレスなの。。。とすぐに説明を始めるおばあさん。
仮縫いが終わった状態で、たくさんのピンが打ってある。でも、まだまだこれから仕上げなくてはいけないところがいっぱいだ。
あなたならどう仕上げる? と聞いて来た。
ここがこうで、ここはこう縫って。。。とやり取りをしていたら、それではそのように縫ってもらいたい。と、すぐに言ってくれた。
わかりました、納期はいつですか? と聞いたら、木曜日にはお客様が取りに来る。結婚式が土曜日なの。。。っと、言った後、そのおばあさんも顔が引きつっているのがみてとれた。えっ? 木曜日?? 今日は9月5日の午後 。。。7日の朝には仕上がっていなくてはいけない。しかも今日は子供達の学校の初日、色々放課後も子供達の予定がある。
うわ。。っと、思ったけど、もう困っていらっしゃるのが手に取るようにわかる。
これはなんとかしなくてはいけない。自分ができることであるなら。
と、とっさにそう思った。
わかりました、それではどのように仕上げたら良いか、もう少し詳しく教えてもらえますか?と聞くと、いろいろ教えてくれる。それを聞いていたら、同じものを作る人間として、彼女が手仕事をしている姿がなんとなく目に浮かんで来た。どんな小さなことでも彼女の所作、こだわりがあるはずだ。これは、私の基準で仕上げてはいけないと思った。
わかりました。私が作ります。でも一つお願いがあります。私があなたのスタジオに出向きますので、一緒にそばにいてもらえますか?私があなたの手になります。全てを見届けて、指示をしてもらえませんか?と、そんなことを言ってしまったのである。
そうしたら彼女は、そうしてくれますか?っと。ホッとしたような表情をうかべてくれた。
さあ、乗りかかった船、なんとかしなくてはいけない。
学校の初日、子供達もそれぞれに元気いっぱい帰って来てくれたところを見届けて、さあ出発。
教えられた住所に出かけると、そこは歴史ある街にそびえるビクトリアンスタイルの大きな家の一角。素敵なお店だった。
彼女曰く、生地はシルクしか扱わない。エレガントなドレスのラインを作るのは絹しか考えられない。そこが彼女のこだわりだという。
実際お店に並んでいるお品はどれも、本当にオーソドックスなデザイン。だからこそ素材の良さと縫い方が出る。一瞬身が震えた。
到着したのが夕方の5時半、さあ始めようとすぐに彼女の仕事場に連れて行かれて、すぐに生地が広げられた。骨を折って1週間も経っていない。とても辛そうだ。息を切らしながら、私にいろいろ指示をしてくれる。
私が思った通り、縫い代の量、割り方、角の仕上げ方。角の出し方。どれをとっても細かく指示される。
それでも本当に優しい。彼女も藁をもすがる思いなのだろうけれど、私が何をしても、beautiful, excellent と、優しく励ましてくれた。
ミシンに向かう私の後ろで、楽しい話も聞かせてくれる。
ポルトガルから移民でやって来たこと。
このお店を持った経緯、そしてこんな話題も。
彼女のドレスは結婚式のみならず、いろいろな場を想定して注文される方も多い。
オバマ大統領主催のホワイトハウスでの晩餐会、ノーベル賞授賞式、スエーデン国王主催の晩餐会へのドレスも手がけた話を嬉しそうに聞かせてくれた。
それでも私も日々の予定がある。これだけにかかるわけにもいかない。
決まっていた仕事の予定をこなしながらの夜だけの縫い子仕事になった。
そして水曜日の夜。もうそろそろ仕上がる見込みがついた頃、彼女がこう言ってくれた。
あなたをもっと早くに知っていたらよかった。そうしたらこんなにいそがせなくてすんだのに、申し訳なかったわね。って。
そんなことはないわ。とっても楽しい時間だったのよ。私にとってもいい経験だったわ。と応える私。
実はね、孫娘がフェイスブックに載せること、私は反対だったの。案の定、いろいろやれるよっていう人が出て来た。でもね、そんなわからない人に頼むわけにいかない。
今まで私と一緒にやって来た人はみんな年をとった。誰にも頼めなかったのよ。
でもね、あなたの住む街には大きなポルトガル人のコミュニテイーがあるの。
知ってた?
どうしたらいいだろう、って私、友達に相談したのよ。そうしたらね、彼女があなたの名前を見てね、Nobukoがいい、Nobukoならやってくれる。って、そう言ったの。だからね、あなたのところに急いで行ったのよ。本当によかった。
あなたは知らない人でしょうね。でもね、あなたの近所に住んでるのよ。今度紹介してあげるね。って。
私はびっくりした。
この大きなご縁は、こんな人々のリレーがあって実現したのだ。
フェイスブックの投稿を見て、すぐに私を推薦してくれた日本人の友人、そして、見ず知らずの方。
私は涙が出てきそうだった。
18年前にローガン空港に降り立った時、私はこのボストンという街に誰一人知り合いはいなかったのだ。
でも今、こんなに多くの人々が私を支えてくれる。
本当にありがたくて、幸せに思った。
この18年の間には、いろいろなことがあった。
哀しい思いに押しつぶされそうな、そんな日々ももちろんあった。
でもそんな時、大切な友人が言ってくれた言葉が、今でも私を支えてくれる。
この街はきっと、Nobukoのhome town になる。
ほんとだね、この街に支えられてる。そんなことを感じずにはいられない、そんな出来事。私の街がまた一つ、好きになった。ありがとうね、Arlington.
ながらく洋裁店を営んでいる私のおばあさんが腕を怪我した。ドレスを仕上げなくてはいけない。誰か助けてくれる人はいないだろうか、お孫さんからの投稿だった。
すぐに、お客様でもある日本人の友人が、私を推薦してくれた。でも、数日が過ぎても何も連絡はない。もう誰かが決まったのだろうな。とそんな風に思いながら日々をすごして私もそんなことも忘れていた頃、突然電話がなった。
今からあなたのスタジオに行きたい。あってくれますか?と、腕を折られたご本人からの電話だ。
びっくりしたけれど、困っていらっしゃるのが息遣いからもわかる。すぐに快諾して来てもらう約束をすると、おばあさんはお孫さんに支えられながら、紙袋を持って我が家にやって来てくれた。
これがそのドレスなの。。。とすぐに説明を始めるおばあさん。
仮縫いが終わった状態で、たくさんのピンが打ってある。でも、まだまだこれから仕上げなくてはいけないところがいっぱいだ。
あなたならどう仕上げる? と聞いて来た。
ここがこうで、ここはこう縫って。。。とやり取りをしていたら、それではそのように縫ってもらいたい。と、すぐに言ってくれた。
わかりました、納期はいつですか? と聞いたら、木曜日にはお客様が取りに来る。結婚式が土曜日なの。。。っと、言った後、そのおばあさんも顔が引きつっているのがみてとれた。えっ? 木曜日?? 今日は9月5日の午後 。。。7日の朝には仕上がっていなくてはいけない。しかも今日は子供達の学校の初日、色々放課後も子供達の予定がある。
うわ。。っと、思ったけど、もう困っていらっしゃるのが手に取るようにわかる。
これはなんとかしなくてはいけない。自分ができることであるなら。
と、とっさにそう思った。
わかりました、それではどのように仕上げたら良いか、もう少し詳しく教えてもらえますか?と聞くと、いろいろ教えてくれる。それを聞いていたら、同じものを作る人間として、彼女が手仕事をしている姿がなんとなく目に浮かんで来た。どんな小さなことでも彼女の所作、こだわりがあるはずだ。これは、私の基準で仕上げてはいけないと思った。
わかりました。私が作ります。でも一つお願いがあります。私があなたのスタジオに出向きますので、一緒にそばにいてもらえますか?私があなたの手になります。全てを見届けて、指示をしてもらえませんか?と、そんなことを言ってしまったのである。
そうしたら彼女は、そうしてくれますか?っと。ホッとしたような表情をうかべてくれた。
さあ、乗りかかった船、なんとかしなくてはいけない。
学校の初日、子供達もそれぞれに元気いっぱい帰って来てくれたところを見届けて、さあ出発。
忘れちゃいけない老眼鏡♪
なんて思いながらいざ出陣!
教えられた住所に出かけると、そこは歴史ある街にそびえるビクトリアンスタイルの大きな家の一角。素敵なお店だった。
彼女曰く、生地はシルクしか扱わない。エレガントなドレスのラインを作るのは絹しか考えられない。そこが彼女のこだわりだという。
実際お店に並んでいるお品はどれも、本当にオーソドックスなデザイン。だからこそ素材の良さと縫い方が出る。一瞬身が震えた。
到着したのが夕方の5時半、さあ始めようとすぐに彼女の仕事場に連れて行かれて、すぐに生地が広げられた。骨を折って1週間も経っていない。とても辛そうだ。息を切らしながら、私にいろいろ指示をしてくれる。
私が思った通り、縫い代の量、割り方、角の仕上げ方。角の出し方。どれをとっても細かく指示される。
それでも本当に優しい。彼女も藁をもすがる思いなのだろうけれど、私が何をしても、beautiful, excellent と、優しく励ましてくれた。
ミシンに向かう私の後ろで、楽しい話も聞かせてくれる。
ポルトガルから移民でやって来たこと。
このお店を持った経緯、そしてこんな話題も。
彼女のドレスは結婚式のみならず、いろいろな場を想定して注文される方も多い。
オバマ大統領主催のホワイトハウスでの晩餐会、ノーベル賞授賞式、スエーデン国王主催の晩餐会へのドレスも手がけた話を嬉しそうに聞かせてくれた。
それでも私も日々の予定がある。これだけにかかるわけにもいかない。
決まっていた仕事の予定をこなしながらの夜だけの縫い子仕事になった。
そして水曜日の夜。もうそろそろ仕上がる見込みがついた頃、彼女がこう言ってくれた。
あなたをもっと早くに知っていたらよかった。そうしたらこんなにいそがせなくてすんだのに、申し訳なかったわね。って。
そんなことはないわ。とっても楽しい時間だったのよ。私にとってもいい経験だったわ。と応える私。
実はね、孫娘がフェイスブックに載せること、私は反対だったの。案の定、いろいろやれるよっていう人が出て来た。でもね、そんなわからない人に頼むわけにいかない。
今まで私と一緒にやって来た人はみんな年をとった。誰にも頼めなかったのよ。
でもね、あなたの住む街には大きなポルトガル人のコミュニテイーがあるの。
知ってた?
どうしたらいいだろう、って私、友達に相談したのよ。そうしたらね、彼女があなたの名前を見てね、Nobukoがいい、Nobukoならやってくれる。って、そう言ったの。だからね、あなたのところに急いで行ったのよ。本当によかった。
あなたは知らない人でしょうね。でもね、あなたの近所に住んでるのよ。今度紹介してあげるね。って。
私はびっくりした。
この大きなご縁は、こんな人々のリレーがあって実現したのだ。
フェイスブックの投稿を見て、すぐに私を推薦してくれた日本人の友人、そして、見ず知らずの方。
私は涙が出てきそうだった。
18年前にローガン空港に降り立った時、私はこのボストンという街に誰一人知り合いはいなかったのだ。
でも今、こんなに多くの人々が私を支えてくれる。
本当にありがたくて、幸せに思った。
この18年の間には、いろいろなことがあった。
哀しい思いに押しつぶされそうな、そんな日々ももちろんあった。
でもそんな時、大切な友人が言ってくれた言葉が、今でも私を支えてくれる。
この街はきっと、Nobukoのhome town になる。
ほんとだね、この街に支えられてる。そんなことを感じずにはいられない、そんな出来事。私の街がまた一つ、好きになった。ありがとうね、Arlington.
2017年4月2日日曜日
生活体験の無さがもたらすもの
朝ドラごときにむきになってバカみたい。と自分で思いながらも、ずっとイライラしていたことの原因がなんとなく、最終回を時計がわりに流してみていて自分でわかったような気がした。
この気持ちって「考えすぎ!」って一蹴されそうなたわごとだけど、でも、いろんな場で大事なような気がする。ちょっと自分の為にまとめてみたい。
このドラマは、本当になんでこうなるの? ありえないでしょ。。という人の心の動き、設定など多々ありすぎて、いまさら何も言う気もしない。
脚本、演出のあまりのひどさに出演してる俳優さん達が気の毒に思えてならないほどだったけれど、それが自分でもなんなのかよくわからなかった。
ただありえないことを描いてるイライラとも違う、もっと根本的に嫌悪感を持つような自分の気持ち。これってなんなのだろうと思っていたら、最終回の一つの設定をみていて、ああ、これだ。これが私は吐き気を感じるほど嫌だったのだと納得した思いだった。
それは主人公の娘さんが、幼い頃に小豆を届けてくれた人に対して、それを使ったお赤飯のおむすびでもてなすという設定。
幼い頃に自分を気にかけてくれた人に対しての感謝、そして、その小豆をお手玉に使って「保存」していたという、物がない時代にも母親が作ってくれた手作りのおもちゃという伏線を出したつもりなのだろうけれど、これはもう、根本的に馬鹿馬鹿しいシーンだ。
そして、これを描ける脚本家、演出家の生活体験の乏しさが本当に腹立たしい。
少しでも料理に関心がある人、幼い頃にどんぐりなど木ノ実を拾ったことがある人であれば、瞬間に、40年近くも虫にたべられなかったの??? っと、ツッコミたくなる。
このドラマが私に嫌悪感をもたらしていたのは、この生活感のない「軽さ」で「感動をあたえよう」などというおごりが、随所に散りばめられていたからだったのだとそのシーンを見たときに確信した。
いま手元に本がなく間違いがあっては恐縮だが、学生の頃に、ある対談を読んで感動したことがあった。
それは栄養学者の川島四郎博士と、漫画家のサトウサンペイ氏との対談。
多分「食べ物さんありがとう」に編纂されているのではないかと思う。
その一つの話題で、川島氏が何かの舞台を見に行ったときに、職業柄食事のシーンが気になったと演出家の方にお話したという一件だ。主人公の性格や仕事ぶり、主人公をとりまく家族の忙しさ、そんな要素を考えて献立はこんな感じだったのではないですか?と演出家の方に伝える。
すると演出家の方は、そうなんです。まさにそこなんです。わかってくださってうれしかったと川島氏に言ったという、そんな内容だった。
そんなことで何を感動してるの?と一笑に付されると思うけれど、若かった私は、これこそ、芸術を作る人、感じる人、そしてそれを活かしていくひとの姿がある話題だとそのとき感じたのだ。
客席から見えもしない御膳の献立にもこだわる、小さな御膳に大きな舞台の設定を凝縮させる。小さなことにこだわるからいい作品が作れる。そして、それを見極められる目を持つ観客がいるから、ますます良い作品が出来ていく。そんな流れが私を感動させたのだ。
私は日本を離れすぎてこの脚本家の他の作品に触れたこともないと思うけれど、この脚本家と、東京五輪のエンブレム問題で渦中にあったデザイナーとの共通点を感じる。
作品の良し悪しは別として、単純にものづくりへの真面目さを感じないのだ。
私たちの世代にありがちな、と言ったら、もうひと世代下だ!って悪友達からのツッコミがきこえそうだけど、なんというのだろう、情報を継ぎ足してわかったような気になっている生活体験のなさ。それでも世の中に「認められて来た」甘え、視聴者をバカにしたような傲慢さ。
それがこのドラマの中に常にみえて、そこが私が感じた嫌悪感だったのだろうと思う。
それでも、こんなことを書いたらまたこんな声が聞こえて来そう。
何熱くなってんの。たかがテレビドラマじゃない。予算だってあるんだよ。って。
まあ、そういうことなのかな。。。それにしても、こうやって受信料を払ってる身でこんな粗悪品を並べられるのは嫌だな。。。まあ、そこが正直な気持ちなのかしら?
もう、まさに「べっぴん」の対極にあるものだもの。
この気持ちって「考えすぎ!」って一蹴されそうなたわごとだけど、でも、いろんな場で大事なような気がする。ちょっと自分の為にまとめてみたい。
このドラマは、本当になんでこうなるの? ありえないでしょ。。という人の心の動き、設定など多々ありすぎて、いまさら何も言う気もしない。
脚本、演出のあまりのひどさに出演してる俳優さん達が気の毒に思えてならないほどだったけれど、それが自分でもなんなのかよくわからなかった。
ただありえないことを描いてるイライラとも違う、もっと根本的に嫌悪感を持つような自分の気持ち。これってなんなのだろうと思っていたら、最終回の一つの設定をみていて、ああ、これだ。これが私は吐き気を感じるほど嫌だったのだと納得した思いだった。
それは主人公の娘さんが、幼い頃に小豆を届けてくれた人に対して、それを使ったお赤飯のおむすびでもてなすという設定。
幼い頃に自分を気にかけてくれた人に対しての感謝、そして、その小豆をお手玉に使って「保存」していたという、物がない時代にも母親が作ってくれた手作りのおもちゃという伏線を出したつもりなのだろうけれど、これはもう、根本的に馬鹿馬鹿しいシーンだ。
そして、これを描ける脚本家、演出家の生活体験の乏しさが本当に腹立たしい。
少しでも料理に関心がある人、幼い頃にどんぐりなど木ノ実を拾ったことがある人であれば、瞬間に、40年近くも虫にたべられなかったの??? っと、ツッコミたくなる。
このドラマが私に嫌悪感をもたらしていたのは、この生活感のない「軽さ」で「感動をあたえよう」などというおごりが、随所に散りばめられていたからだったのだとそのシーンを見たときに確信した。
いま手元に本がなく間違いがあっては恐縮だが、学生の頃に、ある対談を読んで感動したことがあった。
それは栄養学者の川島四郎博士と、漫画家のサトウサンペイ氏との対談。
多分「食べ物さんありがとう」に編纂されているのではないかと思う。
その一つの話題で、川島氏が何かの舞台を見に行ったときに、職業柄食事のシーンが気になったと演出家の方にお話したという一件だ。主人公の性格や仕事ぶり、主人公をとりまく家族の忙しさ、そんな要素を考えて献立はこんな感じだったのではないですか?と演出家の方に伝える。
すると演出家の方は、そうなんです。まさにそこなんです。わかってくださってうれしかったと川島氏に言ったという、そんな内容だった。
そんなことで何を感動してるの?と一笑に付されると思うけれど、若かった私は、これこそ、芸術を作る人、感じる人、そしてそれを活かしていくひとの姿がある話題だとそのとき感じたのだ。
客席から見えもしない御膳の献立にもこだわる、小さな御膳に大きな舞台の設定を凝縮させる。小さなことにこだわるからいい作品が作れる。そして、それを見極められる目を持つ観客がいるから、ますます良い作品が出来ていく。そんな流れが私を感動させたのだ。
私は日本を離れすぎてこの脚本家の他の作品に触れたこともないと思うけれど、この脚本家と、東京五輪のエンブレム問題で渦中にあったデザイナーとの共通点を感じる。
作品の良し悪しは別として、単純にものづくりへの真面目さを感じないのだ。
私たちの世代にありがちな、と言ったら、もうひと世代下だ!って悪友達からのツッコミがきこえそうだけど、なんというのだろう、情報を継ぎ足してわかったような気になっている生活体験のなさ。それでも世の中に「認められて来た」甘え、視聴者をバカにしたような傲慢さ。
それがこのドラマの中に常にみえて、そこが私が感じた嫌悪感だったのだろうと思う。
それでも、こんなことを書いたらまたこんな声が聞こえて来そう。
何熱くなってんの。たかがテレビドラマじゃない。予算だってあるんだよ。って。
まあ、そういうことなのかな。。。それにしても、こうやって受信料を払ってる身でこんな粗悪品を並べられるのは嫌だな。。。まあ、そこが正直な気持ちなのかしら?
もう、まさに「べっぴん」の対極にあるものだもの。
2017年1月15日日曜日
我が家は家族がこの国で私達だけだから、子ども達の誕生日を大勢で祝ってあげることができない。だから、せめて子ども達が小学生の間だけでも、お友達に大勢囲まれるパーテイーをしてあげたくて続けて来た。それも今回で終わり。夫と二人で18年間を振り返って、しみじみ。。。😊
— 風信子 (@studiohyacinth) 2017年1月15日
初めて企画した子ども達だけのパーテイー。お兄ちゃんにピザがいいと言われたから、ピザをオーダーすることにした。でも18年前の私はそんなことしたこともない。数日前にオーダーの電話をいれたら、そんな枚数だったら、1時間前にして電話くれって言われた。多分2、3枚のこと。当たり前だよね😄
— 風信子 (@studiohyacinth) 2017年1月15日
初めて企画したのは、お兄ちゃんが6歳のパーテイーだったと思う。つたない英語でホステスして、見送ったら私も夫もソファーでぐったり。いただいたばかりのプレゼントで一緒に遊んでというお兄ちゃんに対応できなかったら、ずいぶんあとまで根に持たれた。でもあの頃の私達の必死さ、今なら解るよね😄
— 風信子 (@studiohyacinth) 2017年1月15日
2016年1月11日月曜日
今朝のご飯は,高校生の次男坊も大好きなチョコレートクロワッサン。
夕べのうちに冷凍庫から出しておくと、朝,フワフワに発酵して、オーブンに入れると美味しい香りが家中に広がる。
そんな香りにひかれて、いつもは寝坊気味な次男坊もご機嫌で起きて来た。
美味しそうに食べる子ども達をみながらメールチェックをした私に、そのニュースは飛び込んで来た。
次男坊の友人のママが亡くなったのだ。
彼女とは,子ども達の活動の中で出会った。
中学で初めて一緒になった子ども同士はとても仲良くしている。私も彼女と仲良くなりたいとおもった。
でも、彼女はいつも私によそよそしかった。
なぜだろう。と思うことはあっても,子ども達の活動の中で接点も多い。
彼女の私への態度は,明らかに他の人と違うような気がした。
英語がおぼつかない私にイライラしているのだろう。そう思って我慢する様にしようと思ったが,数年前のある一件を境に、私はもう我慢の一線を越えて、表には出さない様に努めていたけれど、彼女に対して不愉快の感情を持つ様になった。
そして、もう、彼女に自分から歩み寄ることをやめた。
子ども同士は仲良くしてる。親まで仲良くなくてはいけないことなどない。
そう自分に割り切るようにしむけた。
活動の中で,次男坊の同級生は彼だけ。
本来なら同じ年の母親同士、一緒に活動して、そのチームを盛り上げていきたかった。
でも、できない。
仕方がない、イライラしながらも、そう諦めていた。
そして、そのイライラが悲しかった。
そんな彼女の訃報が今朝飛び込んできたのだ。
なにも知らなかった。彼女が長年病を抱えていたことも,お子さん達がその病を持つ母親と一緒に頑張っていたことも。
次男坊に聞くと、彼は二ヶ月前に、友人である息子さん本人から聞いたのだとか。
次男坊を送る車の中で,初めて涙がでた。
お母さんがいけなかった。あんなに嫌わなければよかった。
どうして,お母さんにあんなに冷たいのだろう。どうしてお母さんをあんなに嫌うのだろう。って、お母さんは自分の気持ばっかりおもってしまったけど、気持を閉ざさなければよかったのだ。
いろいろな思いがあったのだろうに、自分を嫌う人にどうして? なんて思って怒るのはいけないね。誰でもひとそれぞれ何かかかえてるのだろうから、怒らないでそういう人もいるよね。。って流せばよかったのに。
あなたも,お母さんが嫌ってるから,話題にもできなかったのだろうね。
ごめんね。
そう伝えながら涙がとまらなかった。
私は,なんて未熟な人間なのだろう。
自分の未熟さが情けない。
夕べのうちに冷凍庫から出しておくと、朝,フワフワに発酵して、オーブンに入れると美味しい香りが家中に広がる。
そんな香りにひかれて、いつもは寝坊気味な次男坊もご機嫌で起きて来た。
美味しそうに食べる子ども達をみながらメールチェックをした私に、そのニュースは飛び込んで来た。
次男坊の友人のママが亡くなったのだ。
彼女とは,子ども達の活動の中で出会った。
中学で初めて一緒になった子ども同士はとても仲良くしている。私も彼女と仲良くなりたいとおもった。
でも、彼女はいつも私によそよそしかった。
なぜだろう。と思うことはあっても,子ども達の活動の中で接点も多い。
彼女の私への態度は,明らかに他の人と違うような気がした。
英語がおぼつかない私にイライラしているのだろう。そう思って我慢する様にしようと思ったが,数年前のある一件を境に、私はもう我慢の一線を越えて、表には出さない様に努めていたけれど、彼女に対して不愉快の感情を持つ様になった。
そして、もう、彼女に自分から歩み寄ることをやめた。
子ども同士は仲良くしてる。親まで仲良くなくてはいけないことなどない。
そう自分に割り切るようにしむけた。
活動の中で,次男坊の同級生は彼だけ。
本来なら同じ年の母親同士、一緒に活動して、そのチームを盛り上げていきたかった。
でも、できない。
仕方がない、イライラしながらも、そう諦めていた。
そして、そのイライラが悲しかった。
そんな彼女の訃報が今朝飛び込んできたのだ。
なにも知らなかった。彼女が長年病を抱えていたことも,お子さん達がその病を持つ母親と一緒に頑張っていたことも。
次男坊に聞くと、彼は二ヶ月前に、友人である息子さん本人から聞いたのだとか。
次男坊を送る車の中で,初めて涙がでた。
お母さんがいけなかった。あんなに嫌わなければよかった。
どうして,お母さんにあんなに冷たいのだろう。どうしてお母さんをあんなに嫌うのだろう。って、お母さんは自分の気持ばっかりおもってしまったけど、気持を閉ざさなければよかったのだ。
いろいろな思いがあったのだろうに、自分を嫌う人にどうして? なんて思って怒るのはいけないね。誰でもひとそれぞれ何かかかえてるのだろうから、怒らないでそういう人もいるよね。。って流せばよかったのに。
あなたも,お母さんが嫌ってるから,話題にもできなかったのだろうね。
ごめんね。
そう伝えながら涙がとまらなかった。
私は,なんて未熟な人間なのだろう。
自分の未熟さが情けない。
2015年11月26日木曜日
粋な言葉などなくても
お年頃なのか、私も身体の変化をいろいろ感じる今日この頃。先日夫とそんな話しをしていていた折、夫が何気なく言ってくれた言葉がおかしくて、いま、私達夫婦の間で合い言葉のようになっています。
涙が出るほどおかしくて笑いあったあと、ふっと 懐かしいシーンが私の頭に浮かんで来て,それを思い出す度に、何ともいえない幸せな気持になるのです。
私が小学生、きっと今の娘ぐらいの頃か、それとももう少し幼い頃だったか。NHKで放送されたアメリカのテレビドラマ『大草原の小さな家』は、何度も再放送されながらも新しいシーリーズが続き、主人公も同じ様に年を重ねて,私が高校生になる頃には,大人になったシリーズが放送されていたように思います。
その頃のある一話が、ここのところ私の頭をよぎります。
これから先は私の記憶です。
勝手な脚色があってもお許しください。。。遠い昔に、たった一度だけみたドラマなのです。
ある日、母さんが妊娠に気づき大喜びします。しかしそれは妊娠ではなく、お年頃の身体の変化だったという設定でした。
母さんはたいへん落ち込んで,悩み、明るさも消えてしまいます。
人生に悲観して、自分の存在価値さえ見失う。。。そんな中、父さんがあることを計画するのでした。
ある日,父さんは母さんを窓辺に誘います。
怪訝な顔をする母さんに,父さんは母さんにここで待っている様に伝えて、自分は外に。
そしてはしごをかけて,窓に上がっていくのでした。
何をふざけているの? と不思議に思う母さんに父さんは言います。
「君にもう一度プロポーズをしたいんだよ」と。
あの日の若かった自分と同じように、これからの人生も一緒にすごしていきたい。
そう真摯に語りかける父さんに、母さんは笑いながらも感激して、自分がどれほど愛されているかあらためて感じる。。。そんなお話でした。
そのお話をみてた私は確か高校生。
そのような身体の変化が起きてくるのを知識として持っていても、実感はもちろんありません。
いつものお話で繰り返される優しい夫婦愛にふれて、いいお話だったな。。と、そんな印象だけが私の記憶にのこっていたのです。そんな記憶が、夫の何気ない会話で自分の身体によみがえって来た時、あの日のお話の中の母さんと同じ思いが自分にわき上がって来て、ほんとうになんともいえない幸せな思いに涙がとまりませんでした。
それを夫に伝えると、父さんのセリフが粋だと。自分はそういうことが言えないからいけないのだろうなあ。。と反省するのでした。
記憶というものは本当に不思議です。ほんのちょっとしたきっかけから、何十年も思い出すこともなかった瞬間がフッとよみがえる。
そして、それが幸せな記憶ならよいのですが、哀しい記憶は時に、ひとを心の病に誘うこともあります。
嫌な記憶を消すことはできない。幸せな記憶を重ねていくしかないんだよ。
そう夫に語りかけられながら、私は年月を重ねて生き直して来たようにも思うのです。
先日、お母さんが一番大事な日はいつ?と娘が聞いてきました。ある日付を伝えると,不思議な顔をします。誰の誕生日? と聞くので,お父さんと初めて会った日と伝えました。教えながら,その日から30年も過ぎたということに気づかされました。
Thanksgiving … お母さんは誰に感謝するの?と娘が聞いて来て、私はすかさず「お父さん」と応えました。
夫が私に伝えてくれた言葉は、なにそれ??と、大笑いしてしまうような言葉。お話のような粋な発想などは何もないひとではあるけど、30年の年月、時に哀しみに押しつぶされそうになる私に伴走してくれた夫に、私は感謝の言葉しかうかびません。
そして、もうひとつ。あのドラマには,素敵な結末がありました。
はしごの上で喜びを分かち合う父さんと母さんをみて、「何をやってるのか,今時の若い者の考えることはわからん。。。」とあきれながら見上げている老夫婦がいるのでした。
今までの私達の30年は、決して平坦なものではありませんでした。
これからもきっと、いろいろなことがあることでしょう。
それでも,なんとか日々をつなげて、一緒に過ごしていきたいと思うのです。
私を妻に選んでくれてありがとう。
Thanksgiving の朝に、私は夫に、心から感謝したいと思います。
涙が出るほどおかしくて笑いあったあと、ふっと 懐かしいシーンが私の頭に浮かんで来て,それを思い出す度に、何ともいえない幸せな気持になるのです。
私が小学生、きっと今の娘ぐらいの頃か、それとももう少し幼い頃だったか。NHKで放送されたアメリカのテレビドラマ『大草原の小さな家』は、何度も再放送されながらも新しいシーリーズが続き、主人公も同じ様に年を重ねて,私が高校生になる頃には,大人になったシリーズが放送されていたように思います。
その頃のある一話が、ここのところ私の頭をよぎります。
これから先は私の記憶です。
勝手な脚色があってもお許しください。。。遠い昔に、たった一度だけみたドラマなのです。
ある日、母さんが妊娠に気づき大喜びします。しかしそれは妊娠ではなく、お年頃の身体の変化だったという設定でした。
母さんはたいへん落ち込んで,悩み、明るさも消えてしまいます。
人生に悲観して、自分の存在価値さえ見失う。。。そんな中、父さんがあることを計画するのでした。
ある日,父さんは母さんを窓辺に誘います。
怪訝な顔をする母さんに,父さんは母さんにここで待っている様に伝えて、自分は外に。
そしてはしごをかけて,窓に上がっていくのでした。
何をふざけているの? と不思議に思う母さんに父さんは言います。
「君にもう一度プロポーズをしたいんだよ」と。
あの日の若かった自分と同じように、これからの人生も一緒にすごしていきたい。
そう真摯に語りかける父さんに、母さんは笑いながらも感激して、自分がどれほど愛されているかあらためて感じる。。。そんなお話でした。
そのお話をみてた私は確か高校生。
そのような身体の変化が起きてくるのを知識として持っていても、実感はもちろんありません。
いつものお話で繰り返される優しい夫婦愛にふれて、いいお話だったな。。と、そんな印象だけが私の記憶にのこっていたのです。そんな記憶が、夫の何気ない会話で自分の身体によみがえって来た時、あの日のお話の中の母さんと同じ思いが自分にわき上がって来て、ほんとうになんともいえない幸せな思いに涙がとまりませんでした。
それを夫に伝えると、父さんのセリフが粋だと。自分はそういうことが言えないからいけないのだろうなあ。。と反省するのでした。
記憶というものは本当に不思議です。ほんのちょっとしたきっかけから、何十年も思い出すこともなかった瞬間がフッとよみがえる。
そして、それが幸せな記憶ならよいのですが、哀しい記憶は時に、ひとを心の病に誘うこともあります。
嫌な記憶を消すことはできない。幸せな記憶を重ねていくしかないんだよ。
そう夫に語りかけられながら、私は年月を重ねて生き直して来たようにも思うのです。
先日、お母さんが一番大事な日はいつ?と娘が聞いてきました。ある日付を伝えると,不思議な顔をします。誰の誕生日? と聞くので,お父さんと初めて会った日と伝えました。教えながら,その日から30年も過ぎたということに気づかされました。
Thanksgiving … お母さんは誰に感謝するの?と娘が聞いて来て、私はすかさず「お父さん」と応えました。
夫が私に伝えてくれた言葉は、なにそれ??と、大笑いしてしまうような言葉。お話のような粋な発想などは何もないひとではあるけど、30年の年月、時に哀しみに押しつぶされそうになる私に伴走してくれた夫に、私は感謝の言葉しかうかびません。
そして、もうひとつ。あのドラマには,素敵な結末がありました。
はしごの上で喜びを分かち合う父さんと母さんをみて、「何をやってるのか,今時の若い者の考えることはわからん。。。」とあきれながら見上げている老夫婦がいるのでした。
今までの私達の30年は、決して平坦なものではありませんでした。
これからもきっと、いろいろなことがあることでしょう。
それでも,なんとか日々をつなげて、一緒に過ごしていきたいと思うのです。
私を妻に選んでくれてありがとう。
Thanksgiving の朝に、私は夫に、心から感謝したいと思います。
2014年3月25日火曜日
これからの20年の為に
一昨年 (2012年) の夏、次男坊がお父さんと一緒に日本へ行った。
おじいちゃんの様子が何だかおかしい。 今までと少し違う。私の気持になにか、引っかかるものがあった。
でも、それは杞憂ではなかった。明らかに今までと違う症状があらわれてきた。私たち夫婦が、本格的な親の老いを実感する前兆だったのだ。
秋風が吹く頃、決して弱音を吐かない姑が不安を口にするようになる。
私たちがアメリカに拠点を移すとき、一番の問題であると考えたことは、誰もが同じように親のことであった。
「人生悔いなきようにと祈っています」 折りに触れて,姑がくれる手紙にはこの言葉がある。自分の夢と息子としての思いと。大きな夢を前に子としての責任も感じる夫を後押ししてくれたのも、姑のこの言葉だった。
親の思いに感謝しながら、夫はアメリカという新天地でがむしゃらに働いた。
幼い頃から憧れた仕事に邁進し、外国人でありながらも仕事の上で一国一城をもつ。
家庭もそうだ。お兄ちゃんを連れて、3人で暮らし始めたボストンで二人の新しい命にも恵まれ、小さいながらも我が家を手に入れた。
いつかこういう日が来ると、そう思いながらアメリカに暮らしてきた訳ではない。拠点をアメリカに移すと決めた時から、夫婦で頭を下げるべき人に頭を下げ続けてきたつもりだった。しかしそれが叶わないと知った時、困惑している母を目の前にして私達がするべきことはひとつだと思った。
母ひとりが抱え込む状況を作ってはならない。
どうすればよいのか。
両親の幸せと,私たち家族の幸せ。夫の仕事、夢、そして現実としての経済力。。子ども達の国籍。。。問題は複雑すぎた。どうすればよいのか。。。 本当に,その言葉しか浮かんでこない日々だった。
複雑な問題は、ひとつだけ、どうしても譲れないものだけをキーワードにする。
なぜかある日,私の頭にそんなことが浮かんだ。
どうしても譲れないこと、それは私たち夫婦、二人の互いの人生が心豊かであることだ。
その為になにをするべきなのか、そう、これからの20年後、私たち夫婦が老いを迎えた時。互いが豊かな人生だったと思える為になにをすればよいのか。
そう思いだしたら、フッと結論が出た気がした。誰も犠牲になったと思う人を作ってはいけない。我慢ばかりする人を作ってはならない。
そう考えて夫に思いをを伝えると賛成してくれた。そう、それで行こう。
夫が日本に戻り両親を見守る、そして、私はこの家と家族を守る。そう私が決めたのだ。
そうしようと決めたのが昨年の春。
今、この国で抱えている責任を、すべて同じ状態で日本に着地しなくてはならない。
しかも、できるかぎり両親の近くに。最速に。
たいへんな難題であったけれど、夫はみごとに遂行してくれた。
本当に、この一年近くの夫の日々は、側でみている私も辛かった。
どれほどのストレスにさらされていたことだろう。両親,そして自分の家族を守る為に、どれほど骨身を削ったことだろうと感謝の言葉しかない。
昨年、日本行きを夫婦だけで決めた頃、もうそろそろ春なのにいつまでも雪が降るある日、次男坊と車で話しをした。
お父さんと一緒に暮らせないの?
お父さんにとっては、Sちゃんのことは誰にも代えられないほど大切。それと同じように、おばあちゃんのことも大切な家族なんだよ。 家族だから,みんなで嬉しいことも,寂しいことも分けよう。お父さんだって、Sちゃんと一緒にいられないことは寂しいんだよ。でも、みんなで少しづつ我慢をしよう。。。 そう伝えると、「はい」と応えながら唇を噛み締める次男坊の目から、大粒の涙がこぼれた。
5月、最終的に大学を決める日、お兄ちゃんは私に言った。
おかあさん、何かあった時の為に、家の近くの大学も確保してある。お母さんがそうしてほしいなら,僕はそこに行ってもいいんだよ。
憧れた大学への入学が許可されているのに、この子はなにを言っているのか。そう思いながらも、そんなことを言ってくれた気持に私は涙があふれた。
7歳だった姫は,どこまで実感していたのだろう。
それでも、お父さんっ子だった我が身を思い返しても、彼女の中にある寂しさがよくわかる。
自分で決めたこととはいえ,私も震える思いがする。
こんな私の力で,夫という助けがいなくて、この国で子ども達を育てきれるだろうか。
我が家の生活はこれで3カ所になる。我が家の経済は回っていけるのだろうか。夫は日本でも仕事に追われることだろう。舅の介護にどれほど手を差し伸べることができるのだろうか。私たち夫婦の健康は。。。そう、不安は尽きない。
それでも、今までの私たちの人生も平坦であった訳ではない。
本当に山あり,谷あり、夫と二人でいろいろなことを乗り越えてきた。
これもひとつの大きな山であるだけだ。
今までと同じように,其の都度そのつど、なにが一番よいのかを考えて、たくさんの人の力を借りて乗り越えていくしかない。
この問題が始まった時、私はすぐに両親の地元の市役所に相談した。
福祉の窓口から、介護に関わる皆さん。民生委員の方。どの方の対応も本当にありがたく心強いものだった。どうぞ力を貸していただいて,この状況を乗り切って行きたいと思う。
2000年に日本を離れてから,こんなにも日本の介護環境はすすんだのかと,本当に感動した。祖国の底力と、たくさんの方々の努力に敬意をはらわないではいられない。
先人の方々の努力の賜物で、ひと昔のように「嫁」という立場の人間が一人で背負わなくてはならない時代ではないことを肌で感じている。
老人世帯が誇りをもって二人の生活を守るために、何事かあった時にすぐに飛んで行ってあげられる距離に心を寄せるものがいたら、それで老人世帯の暮らしは守られるのだ。
海を挟んでいても、私が携われることはいろいろある。インターネットのある時代に生きる幸せを感じずにはいられない。
今から30年近く前、夫は初めて私を連れて両親の家に帰った。
とっぷり暮れた夜、ドアベルを夫がならすと、姑が嬉しそうに出てきてくれた。あふれんばかりの笑顔で私を迎え入れてくれた姑の顔を、私は忘れることができない。立場が変わって新しい家族を迎える身になった今、あの日の姑の気持が少しでもわかる気がする。
あの笑顔に応えたいとおもった年月、その思いは今も変わらない。
だからこそ、夫と私の夢も大切にしたいと思う。
人の世の理不尽さを憂いて、誰の為に犠牲になったとか、誰かの気まぐれの為に人生が狂った。そんな思いを私は持ちたくはない。そう思わない為の努力を、これからも重ねて行こうと思うのだ。
二人とも健康に恵まれさえすれば,できる。そう信じよう。
20年後、私たち夫婦が金婚式を迎える頃、穏やかに両親を見送り、そして優しい家族や信頼できる友人達に囲まれて健康な生活をしていることができたら、どれほど幸せだろう。
その為の努力がこれからはじまるだけだ。
さあ、顔晴って行こう。気負うことはなにもない。
毎日穏やかに,楽しい時間を持つ努力を続ける。それだけのことだ。
そう、きっとそうなのだ。
それがどれほど大変なことか、もちろん、重々わかってるつもりだけどね。。。(笑)
おじいちゃんの様子が何だかおかしい。 今までと少し違う。私の気持になにか、引っかかるものがあった。
でも、それは杞憂ではなかった。明らかに今までと違う症状があらわれてきた。私たち夫婦が、本格的な親の老いを実感する前兆だったのだ。
秋風が吹く頃、決して弱音を吐かない姑が不安を口にするようになる。
私たちがアメリカに拠点を移すとき、一番の問題であると考えたことは、誰もが同じように親のことであった。
「人生悔いなきようにと祈っています」 折りに触れて,姑がくれる手紙にはこの言葉がある。自分の夢と息子としての思いと。大きな夢を前に子としての責任も感じる夫を後押ししてくれたのも、姑のこの言葉だった。
親の思いに感謝しながら、夫はアメリカという新天地でがむしゃらに働いた。
幼い頃から憧れた仕事に邁進し、外国人でありながらも仕事の上で一国一城をもつ。
家庭もそうだ。お兄ちゃんを連れて、3人で暮らし始めたボストンで二人の新しい命にも恵まれ、小さいながらも我が家を手に入れた。
いつかこういう日が来ると、そう思いながらアメリカに暮らしてきた訳ではない。拠点をアメリカに移すと決めた時から、夫婦で頭を下げるべき人に頭を下げ続けてきたつもりだった。しかしそれが叶わないと知った時、困惑している母を目の前にして私達がするべきことはひとつだと思った。
母ひとりが抱え込む状況を作ってはならない。
どうすればよいのか。
両親の幸せと,私たち家族の幸せ。夫の仕事、夢、そして現実としての経済力。。子ども達の国籍。。。問題は複雑すぎた。どうすればよいのか。。。 本当に,その言葉しか浮かんでこない日々だった。
複雑な問題は、ひとつだけ、どうしても譲れないものだけをキーワードにする。
なぜかある日,私の頭にそんなことが浮かんだ。
どうしても譲れないこと、それは私たち夫婦、二人の互いの人生が心豊かであることだ。
その為になにをするべきなのか、そう、これからの20年後、私たち夫婦が老いを迎えた時。互いが豊かな人生だったと思える為になにをすればよいのか。
そう思いだしたら、フッと結論が出た気がした。誰も犠牲になったと思う人を作ってはいけない。我慢ばかりする人を作ってはならない。
そう考えて夫に思いをを伝えると賛成してくれた。そう、それで行こう。
夫が日本に戻り両親を見守る、そして、私はこの家と家族を守る。そう私が決めたのだ。
そうしようと決めたのが昨年の春。
今、この国で抱えている責任を、すべて同じ状態で日本に着地しなくてはならない。
しかも、できるかぎり両親の近くに。最速に。
たいへんな難題であったけれど、夫はみごとに遂行してくれた。
本当に、この一年近くの夫の日々は、側でみている私も辛かった。
どれほどのストレスにさらされていたことだろう。両親,そして自分の家族を守る為に、どれほど骨身を削ったことだろうと感謝の言葉しかない。
昨年、日本行きを夫婦だけで決めた頃、もうそろそろ春なのにいつまでも雪が降るある日、次男坊と車で話しをした。
お父さんと一緒に暮らせないの?
お父さんにとっては、Sちゃんのことは誰にも代えられないほど大切。それと同じように、おばあちゃんのことも大切な家族なんだよ。 家族だから,みんなで嬉しいことも,寂しいことも分けよう。お父さんだって、Sちゃんと一緒にいられないことは寂しいんだよ。でも、みんなで少しづつ我慢をしよう。。。 そう伝えると、「はい」と応えながら唇を噛み締める次男坊の目から、大粒の涙がこぼれた。
5月、最終的に大学を決める日、お兄ちゃんは私に言った。
おかあさん、何かあった時の為に、家の近くの大学も確保してある。お母さんがそうしてほしいなら,僕はそこに行ってもいいんだよ。
憧れた大学への入学が許可されているのに、この子はなにを言っているのか。そう思いながらも、そんなことを言ってくれた気持に私は涙があふれた。
7歳だった姫は,どこまで実感していたのだろう。
それでも、お父さんっ子だった我が身を思い返しても、彼女の中にある寂しさがよくわかる。
自分で決めたこととはいえ,私も震える思いがする。
こんな私の力で,夫という助けがいなくて、この国で子ども達を育てきれるだろうか。
我が家の生活はこれで3カ所になる。我が家の経済は回っていけるのだろうか。夫は日本でも仕事に追われることだろう。舅の介護にどれほど手を差し伸べることができるのだろうか。私たち夫婦の健康は。。。そう、不安は尽きない。
それでも、今までの私たちの人生も平坦であった訳ではない。
本当に山あり,谷あり、夫と二人でいろいろなことを乗り越えてきた。
これもひとつの大きな山であるだけだ。
今までと同じように,其の都度そのつど、なにが一番よいのかを考えて、たくさんの人の力を借りて乗り越えていくしかない。
この問題が始まった時、私はすぐに両親の地元の市役所に相談した。
福祉の窓口から、介護に関わる皆さん。民生委員の方。どの方の対応も本当にありがたく心強いものだった。どうぞ力を貸していただいて,この状況を乗り切って行きたいと思う。
2000年に日本を離れてから,こんなにも日本の介護環境はすすんだのかと,本当に感動した。祖国の底力と、たくさんの方々の努力に敬意をはらわないではいられない。
先人の方々の努力の賜物で、ひと昔のように「嫁」という立場の人間が一人で背負わなくてはならない時代ではないことを肌で感じている。
老人世帯が誇りをもって二人の生活を守るために、何事かあった時にすぐに飛んで行ってあげられる距離に心を寄せるものがいたら、それで老人世帯の暮らしは守られるのだ。
海を挟んでいても、私が携われることはいろいろある。インターネットのある時代に生きる幸せを感じずにはいられない。
今から30年近く前、夫は初めて私を連れて両親の家に帰った。
とっぷり暮れた夜、ドアベルを夫がならすと、姑が嬉しそうに出てきてくれた。あふれんばかりの笑顔で私を迎え入れてくれた姑の顔を、私は忘れることができない。立場が変わって新しい家族を迎える身になった今、あの日の姑の気持が少しでもわかる気がする。
あの笑顔に応えたいとおもった年月、その思いは今も変わらない。
だからこそ、夫と私の夢も大切にしたいと思う。
人の世の理不尽さを憂いて、誰の為に犠牲になったとか、誰かの気まぐれの為に人生が狂った。そんな思いを私は持ちたくはない。そう思わない為の努力を、これからも重ねて行こうと思うのだ。
二人とも健康に恵まれさえすれば,できる。そう信じよう。
20年後、私たち夫婦が金婚式を迎える頃、穏やかに両親を見送り、そして優しい家族や信頼できる友人達に囲まれて健康な生活をしていることができたら、どれほど幸せだろう。
その為の努力がこれからはじまるだけだ。
さあ、顔晴って行こう。気負うことはなにもない。
毎日穏やかに,楽しい時間を持つ努力を続ける。それだけのことだ。
そう、きっとそうなのだ。
それがどれほど大変なことか、もちろん、重々わかってるつもりだけどね。。。(笑)
2013年12月23日月曜日
命日に思う
今日は私の父の命日
3年が経った。
亡き父のことは今でも,どんな時でも思い出す。
おだやかな気持で思い出す日が多いけど、命日の今日は怒りも思い出すから嫌だ。
私が好きだった父の死すら伏せて、私を生家から遠ざけようとした人たちのことを思い出すからだ。
人の業にまみれて、悪事をはたらいて平気な顔をしていられる人間達とは一線を画したい。
私はそう思いながら自分の子ども達を育ててきた。
9歳の時から受け続けた虐待
それを隠す為に、嘘に嘘を塗固める努力を続けた本当なら私を守るべきであった人。
私の子育ては、彼らからの呪縛との戦いだった。
今でもそうだ。虐待が始まった日から40年近い年月が経っても、苦しめられる時がある。
それでも、こんな母に育てられながらも、子ども達は三人とも本当によく育ってくれていると思う。
夫ははいつも、信子ががんばったからだよ。
ちゃんと、自分で逃げないで、きちんと生きてきたからだよって言ってくれるけど、そんなことは絶対ない。あの日に私はこの人にであわなかったら、どんな人生をおくっていただろうと、そう思うと怖くなることすらある。
あなたに守られていたからこそ私は生き直すことができた。本当にそう思わないではいられないのだ。
私がこんな夫に出会えたのも、父が私の中に植え付けてくれた男性像がよかったからなのかなあ。。なんて、そんなことを言うと、夫は、僕の方が少しだけ賢いかもねって 。って笑う。
確かに,父はそういう人生の思慮深さがたりない人だった。
真面目で誠実な人ではあったけど、人の業に立ち向かい戦う、そういう強さはない人だった。
でも、そんな弱い父だったけど、それでも、私はどうすることもできないほど好きなのだ。
今でも好きなのだ。大好きなのだ。
父がwise だったら、どんなに私の人生は楽だっただろうとそう思って泣くこともいっぱいあるけど、でも、やっぱり好きなのだ。この気持だけはどうすることもできない。
娘って馬鹿だなあ。。って、自分でもあきれるけどね。。。
2013年11月21日木曜日
私のウェデイングドレス。。。
この間,ブログを書いてから、何だか自分でも引っかかる。。。
「今更、そんな年でもないしなあ。。」って、そんな、なあ。。。って。
この自分の気持って何なんだろう。
私はどんな年代の人であっても、幸せそうにウェデイングドレスを着るひとをみるのが大好きだ。ドレスを着る人が女性であっても、男性であっても、新しい伴侶を得て幸せそうに着飾っている人を見ると、幸せのお裾分けをいただいた気持で嬉しくなる。
それが何度目の結婚の人であっても、新しい伴侶の方との幸せのかたちを祝福せずにはいられない。公園や街角で写真撮影をしているお嫁さんに出会うと、それだけで一日が幸せな気持になる。
でも、それでも自分が今からドレスを着るのは嫌なのだ。
私がウェデイングドレスを着たかったなあ。。なんてちょっとでも口にすると、夫はいまからでも着たらいいじゃない。って大真面目に言ってくれる。
でも、私はヤッパリ自分の姿は、あの22歳の時でなくては嫌なのだ。
なんで嫌なんだろう。。。変なプライドなのかなあ。。って、この間から気持に引っかかって考えてた。
何だか悶々と考えてたら。。。そしたら,あっ、そうか。。。って腑に落ちて、そんな自分の気持がかわいくて、一人で笑ってしまった。
私はウェデイングドレスを着るなら,夫が世界一って思える自分でなくては嫌だったのだ。そうそう。そこよお。。。って自分で思い出したら,おかしくて笑ってしまった。
なんておめでたいことを思ってるんだろう。。って自分にツッコミを入れたい気分だけどね。
要するに、どうしてこんな人と結婚したんだろう。。とか、イライラして夫に怒鳴り散らすようになった自分では嫌だし、この髪を結ってもらうお金であれが買えたりして。。なんて思うのが嫌なのだ。
自分で自分の首を絞めるように、こんなにハードルをあげて馬鹿みたい。結婚式をするのが趣味で、同じ旦那さんと何度も違うドレスを着て結婚式をしてる友人Mにハリセンでぶたれそう。。。
そうよね。。やっぱり私には無理。。。って思った瞬間、でも、。。。まてよ。。。もお、なあんにもしなくていいっていう時だったら着たいなあ。。って、また性懲りもなく馬鹿なことを思いついた。
そうよ、私が棺に入って横になった時に、お布団代わりにドレスをかけてもらえたら嬉しいなあ。。って思ったのだ。
着るはずだったドレスを着ることもなく世を去らなければならなかった花嫁さん。。なんていう悲しい情景を思うと不謹慎だし私の場合はまさにお笑いのようだけど、こんな光景も許されるんじゃないかなあ。。って真面目に思う。
やっぱり、私は着たかったのだ。あの時に,私も着てみたいって言えたらよかっただろうに、私の体型をあれこれ訳もなくあげつらわれた学生時代に自信をなくし、なおかつ、仮装行列みたいなことはしたくないという夫に自分の望みを伝えられなかったのだ。
今なら言えるだろうけど。。。(大笑)
私が大好きだった祖母は,死装束を自分で縫って、まだ小学生だった私にこれを着るのよって、嬉しそうに見せてくれた。そう、そんな感じで、自分のドレスは自分で作ろう。
思いっきり、ありえないくらい細いウェストで、バービーのようなサイズで作ってみようかな。。。
だって着れなくていいんだもん、お布団なんだから。。。(笑)
ビーズもクリスタルもいっぱいつけて,レースもこんな風に。。。なんて考えだしたら,ワクワクしてきた。
嬉しくなって夫にその話をしたら、そんな悲しいこといわないで、いまからでも着たらいいってまた優しく言ってくれるけど、でも、私は今から着るより、この方がいいなあ。
かえって幸せな気持ちがして涙が出てきた。
私が年老いて棺に入った時、三人の子ども達が私の姿をみて呆れかえっていたら,それもそれでうれしい気がするのだ。
ウェデイングドレスに携わる仕事は本当に楽しいし、こちらも幸せな気持になる。
仮縫いの時の、お客様の高揚した姿に触れるのも大好きだ。
だからこそ、私のウェデイングドレスへの思いは、もう昇華してあげたいと思う。
着れなかった、私だって着たかった。。。っていう気持は、もお、おしまい。
だって、これから着るんだもん。どんなデザインにしようかなあ。。
あああ。。。もお。ワクワクしてきちゃったよ♪(大笑)
「今更、そんな年でもないしなあ。。」って、そんな、なあ。。。って。
この自分の気持って何なんだろう。
私はどんな年代の人であっても、幸せそうにウェデイングドレスを着るひとをみるのが大好きだ。ドレスを着る人が女性であっても、男性であっても、新しい伴侶を得て幸せそうに着飾っている人を見ると、幸せのお裾分けをいただいた気持で嬉しくなる。
それが何度目の結婚の人であっても、新しい伴侶の方との幸せのかたちを祝福せずにはいられない。公園や街角で写真撮影をしているお嫁さんに出会うと、それだけで一日が幸せな気持になる。
でも、それでも自分が今からドレスを着るのは嫌なのだ。
私がウェデイングドレスを着たかったなあ。。なんてちょっとでも口にすると、夫はいまからでも着たらいいじゃない。って大真面目に言ってくれる。
でも、私はヤッパリ自分の姿は、あの22歳の時でなくては嫌なのだ。
なんで嫌なんだろう。。。変なプライドなのかなあ。。って、この間から気持に引っかかって考えてた。
何だか悶々と考えてたら。。。そしたら,あっ、そうか。。。って腑に落ちて、そんな自分の気持がかわいくて、一人で笑ってしまった。
私はウェデイングドレスを着るなら,夫が世界一って思える自分でなくては嫌だったのだ。そうそう。そこよお。。。って自分で思い出したら,おかしくて笑ってしまった。
なんておめでたいことを思ってるんだろう。。って自分にツッコミを入れたい気分だけどね。
要するに、どうしてこんな人と結婚したんだろう。。とか、イライラして夫に怒鳴り散らすようになった自分では嫌だし、この髪を結ってもらうお金であれが買えたりして。。なんて思うのが嫌なのだ。
自分で自分の首を絞めるように、こんなにハードルをあげて馬鹿みたい。結婚式をするのが趣味で、同じ旦那さんと何度も違うドレスを着て結婚式をしてる友人Mにハリセンでぶたれそう。。。
そうよね。。やっぱり私には無理。。。って思った瞬間、でも、。。。まてよ。。。もお、なあんにもしなくていいっていう時だったら着たいなあ。。って、また性懲りもなく馬鹿なことを思いついた。
そうよ、私が棺に入って横になった時に、お布団代わりにドレスをかけてもらえたら嬉しいなあ。。って思ったのだ。
着るはずだったドレスを着ることもなく世を去らなければならなかった花嫁さん。。なんていう悲しい情景を思うと不謹慎だし私の場合はまさにお笑いのようだけど、こんな光景も許されるんじゃないかなあ。。って真面目に思う。
やっぱり、私は着たかったのだ。あの時に,私も着てみたいって言えたらよかっただろうに、私の体型をあれこれ訳もなくあげつらわれた学生時代に自信をなくし、なおかつ、仮装行列みたいなことはしたくないという夫に自分の望みを伝えられなかったのだ。
今なら言えるだろうけど。。。(大笑)
私が大好きだった祖母は,死装束を自分で縫って、まだ小学生だった私にこれを着るのよって、嬉しそうに見せてくれた。そう、そんな感じで、自分のドレスは自分で作ろう。
思いっきり、ありえないくらい細いウェストで、バービーのようなサイズで作ってみようかな。。。
だって着れなくていいんだもん、お布団なんだから。。。(笑)
ビーズもクリスタルもいっぱいつけて,レースもこんな風に。。。なんて考えだしたら,ワクワクしてきた。
嬉しくなって夫にその話をしたら、そんな悲しいこといわないで、いまからでも着たらいいってまた優しく言ってくれるけど、でも、私は今から着るより、この方がいいなあ。
かえって幸せな気持ちがして涙が出てきた。
私が年老いて棺に入った時、三人の子ども達が私の姿をみて呆れかえっていたら,それもそれでうれしい気がするのだ。
ウェデイングドレスに携わる仕事は本当に楽しいし、こちらも幸せな気持になる。
仮縫いの時の、お客様の高揚した姿に触れるのも大好きだ。
だからこそ、私のウェデイングドレスへの思いは、もう昇華してあげたいと思う。
着れなかった、私だって着たかった。。。っていう気持は、もお、おしまい。
だって、これから着るんだもん。どんなデザインにしようかなあ。。
あああ。。。もお。ワクワクしてきちゃったよ♪(大笑)
@mayumiura まったくねえ。。オンナゴコロってヤツよ(大笑)
ありがと真弓ちゃま♡
— 風信子 (@studiohyacinth) 2013, 11月 22
2013年11月1日金曜日
育児は やっぱりnon stop....
ついこの間,Etsy のお店のメンテナンスをして,アナウンスを少し変えた。three young children を three children にして、ホント,みんな大きくなったよなあ。。手が離れて,楽になったなあ。。なんて、感慨にふけっていたのもつかの間。。。
うそでしょ?。。。って思うような出来事に今日は振り回された(涙)
夕べはハロウィン、次男坊も姫も大いに楽しんで,次男坊のお友達二人が我が家にお泊まり。姫は朝ご飯の用意を手伝ったり、いそいそ楽しそう。今日は学校もおやすみ。
そのうちビーズを使ってイヤリングを作り始めた。
魔窟の我が家の地下室から,ビーズをいろいろもってきていた。。。と,そこまでは私も把握している。ところが、しばらくしたら。。。
「おかあさん、とれなくなっちゃった。。。」って姫
えっ?なに??? っと聞くと、ビーズが耳の中にはいってしまったのだとか。
しかもご丁寧に、なんとか自分でとろうと耳かきを使った姫、それがアダになって、ずいぶん奥に押し込んでしまったのだ。。。
すぐにお父さんがピンセットを使ってとろうとしてくれたけど、もお後の祭り。
姫の耳の奥に入ったビーズはびくともしない。
はああ。。なんてこと、。。。せっかくのおやすみなのにいい。。。っと思ってもしょうがない。これがまさに,育児よね。。。
思えば,ようやくおすわりできるようになったお兄ちゃんがハーモニカについてたねじを飲み込んでしまったのを皮切りに、どれほどこういう,なんでこうなるの???っていう子ども達の事件で病院にかけこんだことか。。。
かくしてゆったりとした朝食を母は一口も食べることなく病院へ。。。
はああ。。。一件落着。。。。
ほんと、育児はいくつになっても終らない。。。。
うそでしょ?。。。って思うような出来事に今日は振り回された(涙)
夕べはハロウィン、次男坊も姫も大いに楽しんで,次男坊のお友達二人が我が家にお泊まり。姫は朝ご飯の用意を手伝ったり、いそいそ楽しそう。今日は学校もおやすみ。
そのうちビーズを使ってイヤリングを作り始めた。
魔窟の我が家の地下室から,ビーズをいろいろもってきていた。。。と,そこまでは私も把握している。ところが、しばらくしたら。。。
「おかあさん、とれなくなっちゃった。。。」って姫
えっ?なに??? っと聞くと、ビーズが耳の中にはいってしまったのだとか。
しかもご丁寧に、なんとか自分でとろうと耳かきを使った姫、それがアダになって、ずいぶん奥に押し込んでしまったのだ。。。
すぐにお父さんがピンセットを使ってとろうとしてくれたけど、もお後の祭り。
姫の耳の奥に入ったビーズはびくともしない。
はああ。。なんてこと、。。。せっかくのおやすみなのにいい。。。っと思ってもしょうがない。これがまさに,育児よね。。。
思えば,ようやくおすわりできるようになったお兄ちゃんがハーモニカについてたねじを飲み込んでしまったのを皮切りに、どれほどこういう,なんでこうなるの???っていう子ども達の事件で病院にかけこんだことか。。。
かくしてゆったりとした朝食を母は一口も食べることなく病院へ。。。
仲良しのWも一緒についてきてくれた♪
神妙??な姫。。。
結構簡単にとれるかなあ。。って思ったけど,かなり奥に入っていた模様。。。
先生は最初は世界一小さなバキュームよ〜♬なんて楽しいことを言ってたけど,そのうち目がマジになってきたのを,母は見逃さない(笑)
吸引してもとれないし、いろいろtoolを取っ替え引っ替え。。。でも、それでもとれない。。。
そのうちさすがに姫も痛みを感じるようになってきたけど、後少し!なんとかがんばろう!!!
最後に先生が顕微鏡を耳に当てて,ものすごく細いマジックハンドみたいなもので、ビーズの穴に引っ掛けて取り出した。。。。
先生も笑いながらもホッとした様子(笑)
これがはいっておりました。。。
はああ。。。一件落着。。。。
ほんと、育児はいくつになっても終らない。。。。
2013年7月8日月曜日
夏休みと腰痛の関係。。。
ここのところずっと変だなあ。。。って思ってた腰痛が,今朝になってからひどくなった。
まるで去年のような痛み。あの車いすにのって次男坊の卒業式に出席した時みたい。。。
去年は庭仕事中に確実に「グニュ・・・」っていう音とともに,変なことが身体におきた。それは自分でも良く覚えてる。
でも、今回はナニゴトもない。。。 自分でも腰痛にならないように気をつけてるつもりだし、それに,朝はまだご飯も作れたしお父さんの散髪もしたし,針仕事も少しはできたのに、お昼頃からとても座ってもいられない。痛み止めも効かない、ものすごい症状になってきた。
自分でもびっくりするくらい。。。
おかしい,おかしい。。。って思いながら病院に行こうかなあ。。っておもって。やっぱりやめた。
だって,また異常なし。。って言われて痛み止めを飲むように言われるだけ。
あああ。。なにが起きたんだろう。どうしたんだろう。。。ってふてくされて横になってたら、この間のNHKのクローズアップ現代で特集していた「ストレスからくる腰痛」っていう言葉が浮かんできた。
のんびり暮らしているつもりの私でも,それなりに,人並みにストレスにはさらされてるはず。。。そんな、そんなことあるのかなあ。。なんて思いながらストレスと腰痛の関係をググってたら,『腰痛は怒りである』って、そんな言葉を見つけた。
本がいろいろ出ているようだけど,私は今読むことができないし、だからこれは本を読んでの感想ではない。
でも、その言葉だけでも思いあたることがあって、ベットの中でいろいろ考えてた。
そう、確かに私はここのところ,自分でも押さえきれないような怒りにあえいでいたような気がする。
素直に思う。私は『夏休み』が嫌いなのだ。
「実家に帰らせていただきます。。。」なんていう実家は私には存在しない。それは今にはじまったことではない。ずっと、結婚する前から、一貫して私の暮らしの中にはなかった。今更そんな年でもないでしょ。。。って笑われるだろうけど、自分の人生の中で持つことができなかったから、余計に望むのだろう。
私にはないのだよ、って。そう思い知らされるのが「夏休み」なのだ(笑)
無い物ねだりをはじめると辛いだけ、そんなことをするなって言う私と、楽しそうな人の話題に嫉妬する私、その嫉妬にイライラする私、いろんな私を自分の中で処理できなくなっておさえきれないような怒りがこの痛みを生んだような気がする。
そんな中、腰の痛みに耐えられず寝込んでいる私の為に、次男坊と姫が買い物にでかけた。
おつりがあったから、お気に入りのクッキー屋さんでクッキーを買ったよ。って、嬉しそうな電話の声。 このボーイソプラノの可愛らしい声も、もうすぐ消えてしまうかもしれないのに。。。
母は情けない。こんなに恵まれているのに、すぐに無い物ねだりをしてバチがあたるぞ!って、そう思ったけど、でも、そんな嫉妬したり、いじけたりするのも私であると、そう思い返して嫉妬する自分に優しくしてあげることにした。
そしたら、涙があふれて来て、自分でもどうして良いのかわからないくらい(笑)
そうそう、賢明な人みたいなふりをするから、こんなに心が痛くなるんだよね。
私は情けない人間なのだ。こんなに夫と育てた家族に恵まれているのに、持てなかったものを未だに追い求めて、その、私は持てなかったものを持っている人の方が私なんかよりずっと幸せなんだ。なんて、人と自分を比べたりする。何を幸せって思うか、そんなの人それぞれだってちゃんとわかっているのに。
過去は変えることができない、でも、人は未来を創ることができる。
そう教えてくれながら私に伴走してくれる夫と一緒に、私はいままできたのだ。
私には持てなかったもの。それを今更見つめて持っていないことを確認して何があるのだろう。。。
そう頭ではわかっていても、この愚行は毎年繰り返されているような気がする。
私はそれほど「夏休み」が嫌いなのだ。そう。大嫌い。
それなら、そう認めてしまおう。そしたらきっと、この腰痛から解放されるんじゃないかなあ。。なんて、ホント思ったよ。
私はきっと、自分の中にある「理想の夏休み」に縛られて、自分で自分のクビをしめているのだ。。。それが幻だって、ちゃんとわかっているのに(笑)
@Audrey326 ありがとう姐さん、顔晴ります。
— 風信子 (@studiohyacinth) July 11, 2013
@runcocco 私もホント、こんな情けない気持ちを手放したいです。でも、そんな馬鹿みたいな情けない自分も大事にしてあげようと思っています。だって、本当に悲しくて辛かったんだもん(笑)
— 風信子 (@studiohyacinth) July 12, 2013
2013年4月15日月曜日
いってらっしゃい。
2013年4月9日、お兄ちゃんはNational Guard に入隊した。
奇しくも4月9日は、母が父との結婚を決めた日。
まさか、それから30年近い年月をへて息子が軍隊に入隊するなんて、あの日の母には想像もできなかったよ。
日本の国公立大学への進学の道しか許されないご家庭と同じように、我が家もお兄ちゃんの進学に関しては悩みを抱えていた。それでもお兄ちゃんは自分の力で、地元の州立大学は教科書代に至るまで、すべて無償で進学できる道を確保した。でも、彼には彼なりの夢があって、私はどうして良いものなのか、母親としてここ数年は頭を抱える日々だった。
アメリカの大学進学への費用は、どうしてこんなにも高額なのだろうと思う。もちろん彼が得たように、たくさんの奨学金は用意されている。
それをつかって、自分に用意された経済力に合うような大学を選べばよい、のだ。でも、「自分に与えられた経済力に合う大学」が行きたい大学であるとは限らない。
我が家のような家庭では、いわゆるアイビー・リーグと称される私立大学への道は最初からなかった。それでも公立の大学であるなら、我が家のような経済力でも応援してあげられると、そう私は思っていた。
しかしお兄ちゃんが希望する大学は、地元の大学ではない。その場合、その州にすむ学生が優先であり、州外からの学生は授業料が2倍という壁ができる。
単純に計算して、4年間の授業料は2000万円以上であり、生活費を含めると、どれほど切り詰めても我が家には用意できる金額ではない。
私は途方にくれた。
経済的に苦しい家庭、片親が育てている家庭にアメリカの福祉は手厚い。
しかし、私たちがどのような道を辿りながらこの国での礎を築いて来たか、今、現在の夫の給料からは読んではくれないのだ。
夫は30代半ばから、アメリカに新天地を求めた。
同じように、外国人としてこの国で後ろ盾も無くすべてを最初から築いた人なら、私たちがどのような暮らしをしてきたか、想像に難くないと思う。
目の前に、自分の努力で手が届きそうな夢があるのに諦めさせる訳にはいかない。私は金策を模索した。家を売り、老後の蓄えに手を付ける、学生ローンを借りる。。。そんな手順を整えていた私に、お兄ちゃんは思わぬことを告げてきた。
「思わぬこと」ではない。
それは、私が一番恐れていたことだ。
お母さん、そんな顔しないで。
お母さんが心配することはわかっているよ。
でも、大丈夫だよ。
優しい顔をしながら、私に決意を伝えてくれる。
そんな、そんなことしなくていい。
お母さんがなんとかする、と泣く私にお兄ちゃんは言った。
お母さん、現実をみなくてはいけないよ。
家にはあと、ふたりいるんだよ。
僕一人だったら、できるかもしれない。
でも、それと同じことをあとのふたりにもしてあげられるかい?
私は言葉がなかった。
返す言葉が無い私に、お兄ちゃんは言った。
おかあさん、僕にはね、ただで大学に行ける道がいっぱいあるんだよ。
だからね、これは僕にとっての贅沢なんだ。
だから、自分で払いたいんだよ。
私は愚かに泣く母でありながらも、一方で、我が子ながらここまで決心するお兄ちゃんを本当にそのとき、心から偉いと思った。
かわいい子には旅をさせろということだよ。。。と、夫はまるで自分自身に言い聞かせるようにつぶやいている。
彼が男児一生の仕事と思うことには、軍の経験は無駄ではない。
そこまで自分の将来を見据えて決心している彼に、もう私は何も言うことはできなかった。
すべてを親子で決めて姑に伝えるとき、私は嫁して初めて、義母に叱られると思っていた。
お兄ちゃんが生まれてから18年、一度もかかさず彼が生まれた数字の日には必ず電話をくれる。
10月なら10月16日、11月なら11月16日。
お兄ちゃんは姑にとって初めての孫だ。分け隔てなく、どの孫にもあふれんばかりの愛情を注いでくれる義母だけど、お兄ちゃんの成長は、そのまま姑の祖母としての日々。
きっと、私と同じように取り乱してしまうのではないかと覚悟していた。
しかし姑は違った。
私の話しを静かに聞いてくれていた義母は、すかさず言った。
信子さんの気持はよくわかる、でも、あの子の思うようにさせてあげなくてはいけない。
あとで後悔するようなことがあってはいけない。そこまで考えてすることなら、応援してあげなくてはいけないと。
私は涙が出てしかたがなかった。
そして、それと同時に、義母はこういう思いで夫を育ててきたのだと、本当に心から感謝した。
無謀なこと、大きな危険を伴うことに、身を挺して我が子を守ることが愛情であるのと同じように、どんな結果になろうとも、子を信じて、望むことに常に寄り添って応援してあげることも愛情だと姑をみていて思う。
お兄ちゃんが望んだこの道も、とりかえしのつかない出来事が起きたら、このような愛情をしめした私を蔑む人もいるだろう。でも、私はその蔑みも甘んじて受けようとおもう。そして、そういうことがあったら、弱い私は自分の選択を後悔するだろう。だからこそ、いま、この思いをこうやって文章にのこしておこうと思うのだ。
今朝早く、お兄ちゃんは一人旅にでかけた。
最終的に二つに絞った大学を訪れて、自分でどちらに行くか決めるという。
我が家にはアイビー・リーグという選択肢はなかったけれど、彼は自分ひとりの力で、パブリック・アイビーと呼ばれる複数の大学の合格通知を手に入れた。
本当に、晴れやかな、嬉しそうな顔で出かけて行った。
これから彼は、希望する大学に通いながらアメリカ軍のROTCを受ける。
母はいつも、どんなときも「君死にたまふことなかれ」とおびえているだろう。
でも、今の母は、涙にくれた日の母とは違う。
父親の背をみて育った君は、あの日、若かった母が見上げた父にそっくりだ。
お母さんはね、あなたはきっとお父さんと同じように、努力を惜しむこと無く、自分の人生を切り開いていってくれるだろうと信じているよ。
いってらっしゃい。母はいつも、あなたを応援している。
あなたの祖母が、父を見守ってくれているようにね。
奇しくも4月9日は、母が父との結婚を決めた日。
まさか、それから30年近い年月をへて息子が軍隊に入隊するなんて、あの日の母には想像もできなかったよ。
日本の国公立大学への進学の道しか許されないご家庭と同じように、我が家もお兄ちゃんの進学に関しては悩みを抱えていた。それでもお兄ちゃんは自分の力で、地元の州立大学は教科書代に至るまで、すべて無償で進学できる道を確保した。でも、彼には彼なりの夢があって、私はどうして良いものなのか、母親としてここ数年は頭を抱える日々だった。
アメリカの大学進学への費用は、どうしてこんなにも高額なのだろうと思う。もちろん彼が得たように、たくさんの奨学金は用意されている。
それをつかって、自分に用意された経済力に合うような大学を選べばよい、のだ。でも、「自分に与えられた経済力に合う大学」が行きたい大学であるとは限らない。
我が家のような家庭では、いわゆるアイビー・リーグと称される私立大学への道は最初からなかった。それでも公立の大学であるなら、我が家のような経済力でも応援してあげられると、そう私は思っていた。
しかしお兄ちゃんが希望する大学は、地元の大学ではない。その場合、その州にすむ学生が優先であり、州外からの学生は授業料が2倍という壁ができる。
単純に計算して、4年間の授業料は2000万円以上であり、生活費を含めると、どれほど切り詰めても我が家には用意できる金額ではない。
私は途方にくれた。
経済的に苦しい家庭、片親が育てている家庭にアメリカの福祉は手厚い。
しかし、私たちがどのような道を辿りながらこの国での礎を築いて来たか、今、現在の夫の給料からは読んではくれないのだ。
夫は30代半ばから、アメリカに新天地を求めた。
同じように、外国人としてこの国で後ろ盾も無くすべてを最初から築いた人なら、私たちがどのような暮らしをしてきたか、想像に難くないと思う。
目の前に、自分の努力で手が届きそうな夢があるのに諦めさせる訳にはいかない。私は金策を模索した。家を売り、老後の蓄えに手を付ける、学生ローンを借りる。。。そんな手順を整えていた私に、お兄ちゃんは思わぬことを告げてきた。
「思わぬこと」ではない。
それは、私が一番恐れていたことだ。
お母さん、そんな顔しないで。
お母さんが心配することはわかっているよ。
でも、大丈夫だよ。
優しい顔をしながら、私に決意を伝えてくれる。
そんな、そんなことしなくていい。
お母さんがなんとかする、と泣く私にお兄ちゃんは言った。
お母さん、現実をみなくてはいけないよ。
家にはあと、ふたりいるんだよ。
僕一人だったら、できるかもしれない。
でも、それと同じことをあとのふたりにもしてあげられるかい?
私は言葉がなかった。
返す言葉が無い私に、お兄ちゃんは言った。
おかあさん、僕にはね、ただで大学に行ける道がいっぱいあるんだよ。
だからね、これは僕にとっての贅沢なんだ。
だから、自分で払いたいんだよ。
私は愚かに泣く母でありながらも、一方で、我が子ながらここまで決心するお兄ちゃんを本当にそのとき、心から偉いと思った。
かわいい子には旅をさせろということだよ。。。と、夫はまるで自分自身に言い聞かせるようにつぶやいている。
彼が男児一生の仕事と思うことには、軍の経験は無駄ではない。
そこまで自分の将来を見据えて決心している彼に、もう私は何も言うことはできなかった。
すべてを親子で決めて姑に伝えるとき、私は嫁して初めて、義母に叱られると思っていた。
お兄ちゃんが生まれてから18年、一度もかかさず彼が生まれた数字の日には必ず電話をくれる。
10月なら10月16日、11月なら11月16日。
お兄ちゃんは姑にとって初めての孫だ。分け隔てなく、どの孫にもあふれんばかりの愛情を注いでくれる義母だけど、お兄ちゃんの成長は、そのまま姑の祖母としての日々。
きっと、私と同じように取り乱してしまうのではないかと覚悟していた。
しかし姑は違った。
私の話しを静かに聞いてくれていた義母は、すかさず言った。
信子さんの気持はよくわかる、でも、あの子の思うようにさせてあげなくてはいけない。
あとで後悔するようなことがあってはいけない。そこまで考えてすることなら、応援してあげなくてはいけないと。
私は涙が出てしかたがなかった。
そして、それと同時に、義母はこういう思いで夫を育ててきたのだと、本当に心から感謝した。
無謀なこと、大きな危険を伴うことに、身を挺して我が子を守ることが愛情であるのと同じように、どんな結果になろうとも、子を信じて、望むことに常に寄り添って応援してあげることも愛情だと姑をみていて思う。
お兄ちゃんが望んだこの道も、とりかえしのつかない出来事が起きたら、このような愛情をしめした私を蔑む人もいるだろう。でも、私はその蔑みも甘んじて受けようとおもう。そして、そういうことがあったら、弱い私は自分の選択を後悔するだろう。だからこそ、いま、この思いをこうやって文章にのこしておこうと思うのだ。
今朝早く、お兄ちゃんは一人旅にでかけた。
最終的に二つに絞った大学を訪れて、自分でどちらに行くか決めるという。
我が家にはアイビー・リーグという選択肢はなかったけれど、彼は自分ひとりの力で、パブリック・アイビーと呼ばれる複数の大学の合格通知を手に入れた。
本当に、晴れやかな、嬉しそうな顔で出かけて行った。
これから彼は、希望する大学に通いながらアメリカ軍のROTCを受ける。
母はいつも、どんなときも「君死にたまふことなかれ」とおびえているだろう。
でも、今の母は、涙にくれた日の母とは違う。
父親の背をみて育った君は、あの日、若かった母が見上げた父にそっくりだ。
お母さんはね、あなたはきっとお父さんと同じように、努力を惜しむこと無く、自分の人生を切り開いていってくれるだろうと信じているよ。
いってらっしゃい。母はいつも、あなたを応援している。
あなたの祖母が、父を見守ってくれているようにね。
2012年11月24日土曜日
Nutcracker
感謝祭が終わって、クリスマスツリーが売られるようになりました。
昨日も、大きな樅の木を屋根に乗せて走る車をみかけました。
なんて気が早い。。。って思いながらも、季節感があって嬉しいものです。
Nutcrackerのバレエも、この季節のお約束・・・
何ともいえない季節の喜びを運んでくれます。
Boston Ballet の本拠地に暮らす我が家の子ども達は、田舎育ちの私には考えられないほどバレエを身近に感じて育ちます。
9.11の後、町の教育費はたいへんな打撃を受けて、呆れかえるほど削減されました。
それでも、まだお兄ちゃんの頃には、小学校3年生になるとスクールバスに乗ってオペラハウスまでNutcracker を見に行く遠足があったのです。
お友達と行くボストンバレエ。。。お兄ちゃんは張り切っていました。
席は選べないから、舞台から遠いかもしれない。。。と、お父さんから折りたたみ式のオペラグラスまで借りて、学校の遠足だけどネクタイを締めて、ちょっとおしゃれもして(笑)
意気揚々と目を輝かせて帰って来たお兄ちゃん。
開口一番なにを言うかとおもったら、「お母さん、知ってる??
バレエを踊る男の人のお○○チンって、ものすっごく大きいんだよ!!」
聞けば、我が家では買えないような、舞台全体がよく見渡せる前の方のとっても良いお席だったとか。。。
そんな良い席に座りながら、オペラグラスを構えてある一点を見つめてたお兄ちゃん。
しかも、お兄ちゃんの驚嘆の声に合わせてまわりの子ども達の興味もそそり、お父さんのオペラグラスは子ども達の手に次々と渡ったとか。。。
私は呆れ返りながらも、確かにその一点に興味がいくだろうなあ。。。と妙な納得をして、お腹を抱えて笑わずにはいられませんでした。
ボーイズそれぞれと、タンタカタ、タンタン、タンタンターン♪
とスキップした雪のボストンの町並み
姑と夫の親子のデートを見守った夜
亡くなった父がまるで、
前の席に座っているかのような錯覚を覚えた冬・・・
くるみ割り人形のバレエは、私に何ともいえない思い出をくれます。
姫の誕生日は12月、私の誕生日は1月。
今年もそれぞれの誕生日プレゼントに姑がチケットを買ってくれました。
昨日も、大きな樅の木を屋根に乗せて走る車をみかけました。
なんて気が早い。。。って思いながらも、季節感があって嬉しいものです。
Nutcrackerのバレエも、この季節のお約束・・・
何ともいえない季節の喜びを運んでくれます。
| 今年はすべてが新しくなったボストンバレエのくるみ割り人形 どんな衣装がみれるのか、とっても楽しみです♫ |
Boston Ballet の本拠地に暮らす我が家の子ども達は、田舎育ちの私には考えられないほどバレエを身近に感じて育ちます。
9.11の後、町の教育費はたいへんな打撃を受けて、呆れかえるほど削減されました。
それでも、まだお兄ちゃんの頃には、小学校3年生になるとスクールバスに乗ってオペラハウスまでNutcracker を見に行く遠足があったのです。
お友達と行くボストンバレエ。。。お兄ちゃんは張り切っていました。
席は選べないから、舞台から遠いかもしれない。。。と、お父さんから折りたたみ式のオペラグラスまで借りて、学校の遠足だけどネクタイを締めて、ちょっとおしゃれもして(笑)
意気揚々と目を輝かせて帰って来たお兄ちゃん。
開口一番なにを言うかとおもったら、「お母さん、知ってる??
バレエを踊る男の人のお○○チンって、ものすっごく大きいんだよ!!」
聞けば、我が家では買えないような、舞台全体がよく見渡せる前の方のとっても良いお席だったとか。。。
そんな良い席に座りながら、オペラグラスを構えてある一点を見つめてたお兄ちゃん。
しかも、お兄ちゃんの驚嘆の声に合わせてまわりの子ども達の興味もそそり、お父さんのオペラグラスは子ども達の手に次々と渡ったとか。。。
私は呆れ返りながらも、確かにその一点に興味がいくだろうなあ。。。と妙な納得をして、お腹を抱えて笑わずにはいられませんでした。
ボーイズそれぞれと、タンタカタ、タンタン、タンタンターン♪
とスキップした雪のボストンの町並み
姑と夫の親子のデートを見守った夜
亡くなった父がまるで、
前の席に座っているかのような錯覚を覚えた冬・・・
くるみ割り人形のバレエは、私に何ともいえない思い出をくれます。
姫の誕生日は12月、私の誕生日は1月。
今年もそれぞれの誕生日プレゼントに姑がチケットを買ってくれました。
学校の舞台から豪華絢爛なオペラハウスまで、ボストンの町は、たくさんの人々の努力が詰まった舞台を、至る所で提供してくれるのです。
2012年11月1日木曜日
Own Turkey
今年もハロウィンが無事すんで、町の飾り付けも今度はThanksgiving が目につくようになりました。
それからどんな時も、必ずThanksgiving には我が家のturkey を焼くようになりました。
姫がお腹にいた年のThanksgiving ...
クリスマス頃が予定日だった私は、大きなお腹をかかえながら朝からturkeyを焼きました。
でもその日は、お腹が大きくてはturkeyを焼くのがたいへんだろうと、友達家族がデイナーに誘ってくれていたのです。
もちろん我が家のturkeyの話しはせずに、喜んでデイナーにおよばれしました。
お宅にお邪魔すると、そんなに大きなパーテイーでもなかったのに、大きなturkey が2匹料理されて並んでいます。
すごいなあ。。これを今晩みんなで食べるのかしら。。。なんて思いで眺めていたら、帰る頃になって友人が、いままで食べたturkeyはもちろん、手つかずのもう一匹のturkey まで包んでくれているのです。。。
えっ???って思って見ていたら、
Nobuko、これはね、家に帰ったら小さく分けて冷凍してね。
これがあれば、お産の後、しばらくは食べられるわ♪
・・・・私は、家に帰れば大きなturkeyが待っているなんて、とても口にできませんでした。
お兄ちゃんも、お父さんもそうだったみたい。。。
家族みんな、そのことにはとても触れられずお宅を後にしました。
家に帰ったら、21.87パウンドの、お兄ちゃんが選んだ大きなturkeyが待っていました。
そしてもうひとつ、これまた大きな友人が焼いてくれたturkey....
それに、おまけのようなこの日の残りのturkey....
他の日だったら、ご近所に美味しいローストターキーをお裾分けしたことでしょう。
でも、Thanksgiving....
アメリカ中でたくさんのturkey がお料理される日。どのお宅にもturkey が余ってたはずです(笑)
もちろん冷凍もしましたが、それからしばらく、我が家で七面鳥レシピが続いたのは言うまでもありません。
今年ももうすぐThanksgiving がやって来ます。
あんなにown turkey、own turkey と大騒ぎしたお兄ちゃん。でも、来年は私のturkeyを食べてくれないかもしれません。そう思うと胸がいっぱいになります。
「僕がね、大きくなってファミリーができて、お母さんのお家に帰って来たら、こんな大きなturkey を焼いてくれる?」大きなturkeyをねだりながら、私に向けた無邪気な笑顔が忘れられません。
今年は何パウンドのturkey が焼けるだろう。。。
お財布と相談しながら、でも、一年に一度の私の楽しみがやってきます。。。
毎年 Thanksgiving に Turkey を焼くのは私の楽しみでもありますが、もうひとつ、我が家にはこんな思い出もあるのです。
確かお兄ちゃんが7歳の Thanksgiving 、近所の友人が Thanksgiving Dinner に誘ってくれました。私の中で Turkey を焼くという物珍しさも少し薄れた頃です。家族で喜んで出かけて行きました。
たくさんのお客様に、ごちそう・・・お兄ちゃんもお友達と楽しく遊んで喜んで家に帰って来たら、「お母さん、僕の turkey はどこ?」と聞くのです。
「どうして?今いただいてきたでしょう」と言うと、あれは Sofia のお家のturkey 、僕のown turkey はないの?と、泣き出してしまったのです。
私は最初は意味もわからなかったのですが、こんなにturkey がお兄ちゃんにとって楽しみだったという事を知って、次の日 慌ててturkey を買いにでかけました。
そして、一日遅れでturkey を焼いたのです。
それからどんな時も、必ずThanksgiving には我が家のturkey を焼くようになりました。
![]() |
| 2003年のThanksgiving 9歳のお兄ちゃんと一緒に♪ 半袖短パンで料理してるなんて、私もまだ若かったのね。。。(大笑) |
姫がお腹にいた年のThanksgiving ...
クリスマス頃が予定日だった私は、大きなお腹をかかえながら朝からturkeyを焼きました。
でもその日は、お腹が大きくてはturkeyを焼くのがたいへんだろうと、友達家族がデイナーに誘ってくれていたのです。
もちろん我が家のturkeyの話しはせずに、喜んでデイナーにおよばれしました。
お宅にお邪魔すると、そんなに大きなパーテイーでもなかったのに、大きなturkey が2匹料理されて並んでいます。
すごいなあ。。これを今晩みんなで食べるのかしら。。。なんて思いで眺めていたら、帰る頃になって友人が、いままで食べたturkeyはもちろん、手つかずのもう一匹のturkey まで包んでくれているのです。。。
えっ???って思って見ていたら、
Nobuko、これはね、家に帰ったら小さく分けて冷凍してね。
これがあれば、お産の後、しばらくは食べられるわ♪
・・・・私は、家に帰れば大きなturkeyが待っているなんて、とても口にできませんでした。
お兄ちゃんも、お父さんもそうだったみたい。。。
家族みんな、そのことにはとても触れられずお宅を後にしました。
家に帰ったら、21.87パウンドの、お兄ちゃんが選んだ大きなturkeyが待っていました。
そしてもうひとつ、これまた大きな友人が焼いてくれたturkey....
それに、おまけのようなこの日の残りのturkey....
他の日だったら、ご近所に美味しいローストターキーをお裾分けしたことでしょう。
でも、Thanksgiving....
アメリカ中でたくさんのturkey がお料理される日。どのお宅にもturkey が余ってたはずです(笑)
もちろん冷凍もしましたが、それからしばらく、我が家で七面鳥レシピが続いたのは言うまでもありません。
今年ももうすぐThanksgiving がやって来ます。
あんなにown turkey、own turkey と大騒ぎしたお兄ちゃん。でも、来年は私のturkeyを食べてくれないかもしれません。そう思うと胸がいっぱいになります。
「僕がね、大きくなってファミリーができて、お母さんのお家に帰って来たら、こんな大きなturkey を焼いてくれる?」大きなturkeyをねだりながら、私に向けた無邪気な笑顔が忘れられません。
今年は何パウンドのturkey が焼けるだろう。。。
お財布と相談しながら、でも、一年に一度の私の楽しみがやってきます。。。
2012年10月1日月曜日
Halloween を手作りで
今年のハロウィンは手作りのコスチュームで楽しみませんか?
ぜひSewing Lesson にお出かけください。
https://sites.google.com/site/hyacinthlessons/home
レッスンにお出かけいただかなくても、材料や縫製の仕方など無料でご相談に応じます。
どうぞ遠慮なくお問い合わせください。
2012年4月14日土曜日
布おむつのリサイクル。。。
![]() |
| まるでお花のような綿ですね(笑) |
特に主義主張があるわけでもないのですが。。。
何となく、赤ちゃんは布のおむつを付けているのが可愛い感じがして、私は子ども達を布のおむつで育ててきました。
青空の下で子ども達のおむつがはためく様は、何ともいえない喜びを私に与えてくれました。
・・・ところがところが。。。3番目の娘が生まれてすぐ、私はなんとしたことか、階段から落ちてしまったのです。もうおむつの洗濯どころか、冷や汗と一緒に授乳するような、そんな暮らしになってしまいました。
あとに残ったものは山のような布のおむつ。。。
捨てるには惜しくて、かといって布おむつを使ってくれるような方は近くにいませんでした。
ぞうきんに作りかえようか、と思ったとき、ふと、せっかく子ども達が使ったものだし、今度は自分の健康を守るものに作り代えてみようかなあ。。。と思ったのです。
それが、私と布ナプキンの出会いでした。
形や、厚み、自分なりに試行錯誤して早6年。。。今や、私の暮らしには欠かせないものになってくれました。
子ども達がお腹にいる時にいただいた晒の腹帯も。。。
神様のはんこが押してあったりすると、はさみを入れるのもいけないような気がしましたが、こうやってリサイクルするなら許していただけるだろうと勝手に思ったりして(笑)
ずっと、Hyacinth でも紹介したいなあ。。。って思ってた布ナプキンですが
違和感を感じる方もいるかな??なんて、躊躇していました。
でも、先ほど朝日新聞の記事でもみつけたし、
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001204130001
こんなお話を書いてもいいかなあ。。。って思って書きました。
子育てやお病気の方と一緒にくらしたり、健康な生活をしていても、木綿の柔らかさが肌に優しい、そんな生活の細々した布製品。。。
どうぞご相談ください。
ご希望を伺いながら、お客様だけの作品をおつくりいたします。
2012年4月1日日曜日
About Hyacinth
![]() |
我家のHyacinth が今 満開です。何ともいえない春の香りを届けてくれています。
ピンクやブルーのHyacinth も大好きですが、こんな白も大好きです。
私が縫い物の仕事を始めようと思った時に、真っ先に「風信子」という名前を考えました。
「風信子」... ヒヤシンスです。
私の高校時代、友達が作ってた学校新聞の編集後記の名前が「風信子」でした。
そして、初めて自分の名前が大好きなお花の名前に入っている事を知りました。
もちろん私も、最初はなんと書いてあるのか読めなかったのですが。。。(笑)
私の名前は、亡くなった父から一字。
いつか姓が変わってしまう娘に、父は自分の字をつかいたかったのだとか。
父の名前は「重信」
父は、自分と呼び名が同じになるように「重子」という名前を最初におもったそうです。
でも、何かおもうところがあったのか、私の名前は「信子」になりました。
重子になっても、信子になっても、私の中では一緒・・・
なぜ、もっと可愛い名前にしてくれなかったのかなあ。。。なんて、幼い頃は思っていました。
ましてや濁音がつく名前なので、必ず「ブー子」とか呼ばれるし・・・
そんな中、高校時代に「風信子」という文字に出会って、初めて自分の名前が好きになりました。
Studio Hyacinth 風信子 なんて、名前を付けてみたら、いなかっぺ大将の大ちゃん「風大左衛門」みたい。。。って言われるし、芸名??なんて言われるし、散々。。。(笑)
でも、気に入ってつかい始めて8年になりました。
これからもずっと使い続けていきたい私の、もう一つの名前です。
2012年2月15日水曜日
うれしいお手紙
私のお店をのぞいてくださった方から,とってもうれしいお手紙をいただきました。
Hello,
I just wanted to say how much I love your fans. They are truly inspiring. As a young woman of 14 years, and the oldest of seven children, my mother left school and went to work to help support her family. This would have been around 1921. She went to work at the Corticelli Silk Mills in Florence, Massachusetts. Her job there was to feed mulberry leaves to the silk worms. I remember her telling us about this when my sibblings and I were growing up, and your delightful fans brought back this sweet memory of my mother. I will try to save enough to purchase one soon.
Best regards,
Kathleen
こんにちは、
あなたの素敵な団扇をみた私から、どれほどあなたの団扇が好きかをつたえさせてください。
あなたの団扇は,私をとてもドキドキさせてくれました。
私の母は7人兄弟の一番上で、14歳の時に家族を助ける為に学校をやめて働きに出ました。
1921年頃のことです。
マサチューセッツ州フローレンスの Corticelli Silk Mills にやってきました。
母はそこで,カイコに桑の葉を食べさせたりする仕事をしていたそうです。
私は母が、私たち兄弟を育てている日々のなかで、よくそのお話をしていたことを思い出します。
あなたの素敵な団扇は、私のそんな母との優しい時間を思い出させてくれました。
私はあなたの団扇が買えるように、いまお金をためていますよ。
キャサリーンより
*******
時々アンテイ−クショップで見かける、かわいい木製のミシン糸や広告・・・
そこで働く14歳の女の子。。。
この女の子は、どんな人と巡りあって、こんな優しい娘さんのママになったのかしら。。。
子どもさん達は,たいへんなこともたくさんあったかもしれないママの昔話を、どんな思いで聞いたのかしら。
100年前のアメリカの風景とともに、そんなことを思いめぐらしました。
私はお手紙があまりにもうれしかったので、すぐにキャサリーンさんにお返事しました。
キャサリーンさんは、優しかったお母さまの思い出とともに、こうやってブログで紹介することをとても光栄だとおしゃってくれました。
100年近い時を超えて,私の手仕事が優しい思い出をつなげてくれた。。。
なんだか、そんなことを思ってしまう出来事でした。
うれしいなあ。。。
キャサリーンさんに、我が家でなぜ,こんなプロジェクトがはじまったか、明日にでもお話しなくては・・・ねっ(笑)
Hello,
I just wanted to say how much I love your fans. They are truly inspiring. As a young woman of 14 years, and the oldest of seven children, my mother left school and went to work to help support her family. This would have been around 1921. She went to work at the Corticelli Silk Mills in Florence, Massachusetts. Her job there was to feed mulberry leaves to the silk worms. I remember her telling us about this when my sibblings and I were growing up, and your delightful fans brought back this sweet memory of my mother. I will try to save enough to purchase one soon.
Best regards,
Kathleen
こんにちは、
あなたの素敵な団扇をみた私から、どれほどあなたの団扇が好きかをつたえさせてください。
あなたの団扇は,私をとてもドキドキさせてくれました。
私の母は7人兄弟の一番上で、14歳の時に家族を助ける為に学校をやめて働きに出ました。
1921年頃のことです。
マサチューセッツ州フローレンスの Corticelli Silk Mills にやってきました。
母はそこで,カイコに桑の葉を食べさせたりする仕事をしていたそうです。
私は母が、私たち兄弟を育てている日々のなかで、よくそのお話をしていたことを思い出します。
あなたの素敵な団扇は、私のそんな母との優しい時間を思い出させてくれました。
私はあなたの団扇が買えるように、いまお金をためていますよ。
キャサリーンより
*******
時々アンテイ−クショップで見かける、かわいい木製のミシン糸や広告・・・
そこで働く14歳の女の子。。。
この女の子は、どんな人と巡りあって、こんな優しい娘さんのママになったのかしら。。。
子どもさん達は,たいへんなこともたくさんあったかもしれないママの昔話を、どんな思いで聞いたのかしら。
100年前のアメリカの風景とともに、そんなことを思いめぐらしました。
私はお手紙があまりにもうれしかったので、すぐにキャサリーンさんにお返事しました。
キャサリーンさんは、優しかったお母さまの思い出とともに、こうやってブログで紹介することをとても光栄だとおしゃってくれました。
100年近い時を超えて,私の手仕事が優しい思い出をつなげてくれた。。。
なんだか、そんなことを思ってしまう出来事でした。
うれしいなあ。。。
キャサリーンさんに、我が家でなぜ,こんなプロジェクトがはじまったか、明日にでもお話しなくては・・・ねっ(笑)
2012年1月10日火曜日
OHANAちゃん、素敵♡
昨年のクリスマスプレゼントにワンちゃんコートをご注文くださった
U様よりかわいいお写真を送っていただきました。
OHANAちゃんというお名前のイメージでMarimekkoのミニウニッコでお作りしました。
ママに名札を付けていただいたのかしら?
OHANAちゃん、かわいい♡♡♡
Hyacinth では 思い出の生地のリメイクも承ります。
このような生活の場での生地のリサイクル、いかがですか??
U様よりかわいいお写真を送っていただきました。
OHANAちゃんというお名前のイメージでMarimekkoのミニウニッコでお作りしました。
ママに名札を付けていただいたのかしら?
OHANAちゃん、かわいい♡♡♡
Hyacinth では 思い出の生地のリメイクも承ります。
このような生活の場での生地のリサイクル、いかがですか??
2011年11月13日日曜日
ワンちゃんのコート♪
あなたのデザインのコートを着せてあげませんか?
生地も暖かさも、あなたのお好きなように作ります。
あなたの服をリサイクルしてはいかがでしょうか?
あなたのお気に入りの服からも,ワンちゃんのコートを作ります。
Please contact me.
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X-Small $35.00〜
Small $40.00〜
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