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2014年3月25日火曜日

これからの20年の為に

 一昨年 (2012年) の夏、次男坊がお父さんと一緒に日本へ行った。
おじいちゃんの様子が何だかおかしい。 今までと少し違う。私の気持になにか、引っかかるものがあった。
でも、それは杞憂ではなかった。明らかに今までと違う症状があらわれてきた。私たち夫婦が、本格的な親の老いを実感する前兆だったのだ。

 秋風が吹く頃、決して弱音を吐かない姑が不安を口にするようになる。
私たちがアメリカに拠点を移すとき、一番の問題であると考えたことは、誰もが同じように親のことであった。
「人生悔いなきようにと祈っています」 折りに触れて,姑がくれる手紙にはこの言葉がある。自分の夢と息子としての思いと。大きな夢を前に子としての責任も感じる夫を後押ししてくれたのも、姑のこの言葉だった。

 親の思いに感謝しながら、夫はアメリカという新天地でがむしゃらに働いた。
幼い頃から憧れた仕事に邁進し、外国人でありながらも仕事の上で一国一城をもつ。
家庭もそうだ。お兄ちゃんを連れて、3人で暮らし始めたボストンで二人の新しい命にも恵まれ、小さいながらも我が家を手に入れた。

 いつかこういう日が来ると、そう思いながらアメリカに暮らしてきた訳ではない。拠点をアメリカに移すと決めた時から、夫婦で頭を下げるべき人に頭を下げ続けてきたつもりだった。しかしそれが叶わないと知った時、困惑している母を目の前にして私達がするべきことはひとつだと思った。
母ひとりが抱え込む状況を作ってはならない。

 どうすればよいのか。
両親の幸せと,私たち家族の幸せ。夫の仕事、夢、そして現実としての経済力。。子ども達の国籍。。。問題は複雑すぎた。どうすればよいのか。。。 本当に,その言葉しか浮かんでこない日々だった。

 複雑な問題は、ひとつだけ、どうしても譲れないものだけをキーワードにする。
なぜかある日,私の頭にそんなことが浮かんだ。
どうしても譲れないこと、それは私たち夫婦、二人の互いの人生が心豊かであることだ。
その為になにをするべきなのか、そう、これからの20年後、私たち夫婦が老いを迎えた時。互いが豊かな人生だったと思える為になにをすればよいのか。

 そう思いだしたら、フッと結論が出た気がした。誰も犠牲になったと思う人を作ってはいけない。我慢ばかりする人を作ってはならない。
そう考えて夫に思いをを伝えると賛成してくれた。そう、それで行こう。
夫が日本に戻り両親を見守る、そして、私はこの家と家族を守る。そう私が決めたのだ。

 そうしようと決めたのが昨年の春。
今、この国で抱えている責任を、すべて同じ状態で日本に着地しなくてはならない。
しかも、できるかぎり両親の近くに。最速に。
たいへんな難題であったけれど、夫はみごとに遂行してくれた。
本当に、この一年近くの夫の日々は、側でみている私も辛かった。
どれほどのストレスにさらされていたことだろう。両親,そして自分の家族を守る為に、どれほど骨身を削ったことだろうと感謝の言葉しかない。

 昨年、日本行きを夫婦だけで決めた頃、もうそろそろ春なのにいつまでも雪が降るある日、次男坊と車で話しをした。
お父さんと一緒に暮らせないの? 

 お父さんにとっては、Sちゃんのことは誰にも代えられないほど大切。それと同じように、おばあちゃんのことも大切な家族なんだよ。 家族だから,みんなで嬉しいことも,寂しいことも分けよう。お父さんだって、Sちゃんと一緒にいられないことは寂しいんだよ。でも、みんなで少しづつ我慢をしよう。。。 そう伝えると、「はい」と応えながら唇を噛み締める次男坊の目から、大粒の涙がこぼれた。

 5月、最終的に大学を決める日、お兄ちゃんは私に言った。
おかあさん、何かあった時の為に、家の近くの大学も確保してある。お母さんがそうしてほしいなら,僕はそこに行ってもいいんだよ。
憧れた大学への入学が許可されているのに、この子はなにを言っているのか。そう思いながらも、そんなことを言ってくれた気持に私は涙があふれた。

 7歳だった姫は,どこまで実感していたのだろう。
それでも、お父さんっ子だった我が身を思い返しても、彼女の中にある寂しさがよくわかる。

 自分で決めたこととはいえ,私も震える思いがする。
こんな私の力で,夫という助けがいなくて、この国で子ども達を育てきれるだろうか。
我が家の生活はこれで3カ所になる。我が家の経済は回っていけるのだろうか。夫は日本でも仕事に追われることだろう。舅の介護にどれほど手を差し伸べることができるのだろうか。私たち夫婦の健康は。。。そう、不安は尽きない。

 それでも、今までの私たちの人生も平坦であった訳ではない。
本当に山あり,谷あり、夫と二人でいろいろなことを乗り越えてきた。
これもひとつの大きな山であるだけだ。
今までと同じように,其の都度そのつど、なにが一番よいのかを考えて、たくさんの人の力を借りて乗り越えていくしかない。
この問題が始まった時、私はすぐに両親の地元の市役所に相談した。
福祉の窓口から、介護に関わる皆さん。民生委員の方。どの方の対応も本当にありがたく心強いものだった。どうぞ力を貸していただいて,この状況を乗り切って行きたいと思う。
 
 2000年に日本を離れてから,こんなにも日本の介護環境はすすんだのかと,本当に感動した。祖国の底力と、たくさんの方々の努力に敬意をはらわないではいられない。
先人の方々の努力の賜物で、ひと昔のように「嫁」という立場の人間が一人で背負わなくてはならない時代ではないことを肌で感じている。
老人世帯が誇りをもって二人の生活を守るために、何事かあった時にすぐに飛んで行ってあげられる距離に心を寄せるものがいたら、それで老人世帯の暮らしは守られるのだ。
海を挟んでいても、私が携われることはいろいろある。インターネットのある時代に生きる幸せを感じずにはいられない。

 今から30年近く前、夫は初めて私を連れて両親の家に帰った。
とっぷり暮れた夜、ドアベルを夫がならすと、姑が嬉しそうに出てきてくれた。あふれんばかりの笑顔で私を迎え入れてくれた姑の顔を、私は忘れることができない。立場が変わって新しい家族を迎える身になった今、あの日の姑の気持が少しでもわかる気がする。
あの笑顔に応えたいとおもった年月、その思いは今も変わらない。
  だからこそ、夫と私の夢も大切にしたいと思う。
人の世の理不尽さを憂いて、誰の為に犠牲になったとか、誰かの気まぐれの為に人生が狂った。そんな思いを私は持ちたくはない。そう思わない為の努力を、これからも重ねて行こうと思うのだ。
二人とも健康に恵まれさえすれば,できる。そう信じよう。

 20年後、私たち夫婦が金婚式を迎える頃、穏やかに両親を見送り、そして優しい家族や信頼できる友人達に囲まれて健康な生活をしていることができたら、どれほど幸せだろう。
その為の努力がこれからはじまるだけだ。
さあ、顔晴って行こう。気負うことはなにもない。
毎日穏やかに,楽しい時間を持つ努力を続ける。それだけのことだ。
そう、きっとそうなのだ。

 それがどれほど大変なことか、もちろん、重々わかってるつもりだけどね。。。(笑)