只今 ボストンの時間は12月26日 日曜日、午前3時27分。
日本なら夕方5時半ちかく。きっと父はもう骨になったことでしょう。
父の煙は煙突をぬけたらどちらにむかっただろう。
私は確信をもっている。
そう、煙は空高くのぼって、今 太平洋を越えているところ。
アメリカに行くんだ! 信子のところに行くんだ!って嬉しそうに向かって来てくれている。そうでしょう?
お父さんはどこに最初に行くの?サンフランシスコ?ロサンゼルス?
山を越えて,そしたらどんな景色がみえるのかなあ。ボストンへ来るまでにいろいろ景色がかわるね。そんなことを考えていたら,私の気持ちが少し楽になる。
私が今,ここボストンにいて父を迎えることに意味があると思うからね。
1950年代、20代だった父にアメリカ留学の機会が訪れた。
憧れだった野口英世のような道がひらける。
両親も喜んでくれると確信して、大喜びで準備をしている父のもとに、田舎から祖母がやってきた。
そんなところに行かないでくれ、みんな泣いている。そんな恐ろしいところに行かないでくれと、泣きながら哀願されたそうである。
今なら笑い話のよう。でも、まだそんな時代だったのか。
喜びの糸がプツッと切れたような気分だった父は失意のうちに その機会を手放し、そして家庭をもち、父親になっていった。
高度経済成長の波にも乗り、小さな町で一生懸命に働き私達をそだて、海外旅行が当たり前の時代になっても、忙しく働き続けた。
私が育った町は海が近い。釣りが好きだった父、車の運転が好きだった父に連れられて、私はよく海を見に行った。
この海の向こうにはアメリカがあるんだよ。アメリカに続いているんだよ。
お父さんはアメリカに行ってみたかった。船に乗って、アメリカの地を踏んで、ションベンして帰って来てもいい。そう思ってたよ.でも、おばあちゃんを泣かせては行けなかった。
私はそう聞かされて育った。恥ずかしがりやで、気が弱いところもあった父。
おばあちゃんを理由にして、やっぱり怖かったのかなあ...そんなことを思う時もあったけど、そこは娘の欲目。どこかでお話のつじつまを合わせてる(笑)
そして夫と出会い海外に目を向ける暮らしになった私は、2000年の春、退路を断ってアメリカに新天地を求めた夫とともに、この地に暮らす。
出発前のある夜、枕元で「ごめんね」と泣く私に、父はまだ自由がきいた左手で一生懸命 私の頭をなでてくれた。
それなのに、車いすで成田空港まできてくれて私が飛行機に乗る時は、父の手を握ろうとする私の手をピシャッと叩いて「早く行け!」とジェスチャーする。ちょっと寂しい思いで振り返ると、出発前にもう一度父と握手しようとした夫の手を握りしめて、不自由になった右手を一生懸命胸まであげて夫を拝んでいた。言葉もでないのに、泣きながら夫に頭を下げている.
あの別れがあったから、私の気持ちは揺らがない。
どんなにちいさな努力も積み重ねて、私はこの国で一生懸命 自分らしく生きようと思う。
時代は変わってもアメリカのもつ魅力はかわらない。
あの時代、若かった父にうつったアメリカはどれほど魅力的だったことだろう。
お父さん、今日はNutcracker のバレエに行こうね。基二郎さんがクリスマスプレゼントにくれたのよ。お父さんは働いてばかりで、こんな華やかな舞台にいく事もなかったね。 私と一緒にみようね。
早くおいで、風にのって海をわたって。でも、見たいところがいっぱいだね お父さん。お父さん、あの町で働き通しだったものね。
でもこれからは私と一緒に、憧れた国、アメリカに暮らそうね.アメリカという国に泣いたり,怒ったり感謝したり。信子の暮らしもいろいろあるのよ。
これからはそばにいて、ずっと見守っていてね。約束だよ、お父さん。
8 件のコメント:
信子さん、お久しぶりです。ひさしぶりにツイッターをしてこちらにたどりつきました。
涙なしには読めませんでした。
お父さま、のぶこさんがアメリカで一生懸命りっぱに子育てして立派なご主人を支えいる姿を見て誇りに思っていることでしょう。
Takaちゃん、早速のコメントをありがとう。
これからもよろしくね。
はじめまして。Needhamに2007年に引っ越してきました晴子ともうします。
たまたまネットサーフしていたのですが、このブログをよみいま亡き父のことを思い出していたところです。
今から12年前に父は他界しましたが、アメリカにいたために最後に話したのは渡米前の日が最後でしたのでなんだかいろいろな気持ちがこみ上げてきてしまいました。
お父様は今お近くにいらっしゃることと思います。こころ落とされていらっしゃると思いますが頑張ってください。晴子
晴子さん、あたたかいコメントをありがとうございました。こみ上げてくる思いはあるのですが、順番と言い聞かせて過ごしています。
Needhamにお住まいなのですね、先日の雪はいかがでしたか?我が家の庭には大きなかまくらができました(笑)
突然の、そして時差ぼけのコメントをお許しください。mayumiuraさんのTLで励まし合うお二人のtweetを拝読。何故か今日は心の奥に誘うものがあり、studiohyacinthさんのProfileからこのBlogへ来ました。お父様とのことを読み、朝っぱらからウルウルしてしまいました。昭和ひと桁世代の私の父も戦争を挟み一杯夢を諦めて生きて来たことや、New England人(隣のちっちゃな州民ですが…笑)の夫を連れて日本に戻り、住み着くと決意し、職探しや出産・子育てに追われて過ごし、子供達の巣離れも見え始めた今頃、気が付くと夫の実家の世話が出来ずにいる自分がいたり…と、海の反対側ですが、我がことを重ねて読んだ次第です。人生は色濃く切なく…
nekotanuさん、ブログにもお出かけくださってありがとうございます。
父の法号のいわれをご住職が送ってくださったのでが、父の道号は「玉瑤」とつけていただいたそうです。
長い人生の中で、辛く,悲しく、時には意のままにならないことがあっても、心はいつも光り輝いて患者さんと接しておられましたね。先生の笑顔と温もりのあることばは落ち込む患者さまに希望と勇気を与える大きな大きなオーラ(玉瑤)でした。と書いてくださいました。
本当にそうだったなあ・・・と涙がでました。
父のような世代は「モーレツ社員」などと人生を謳歌することも知らない世代と批判されますが、あの時代の人達が一生懸命がんばって、日本人の誇りを立て直してくれたのだと、いつ感謝しながらこの国で暮らしています。
人生は意のままにならない、でも、その哀しみを希望にかえて次の世代につなげていく。そんなことを思いながら暮らしています(笑)
お父様が優しい息子さんでいらしたために(と言ってはいけないかもしれませんが)果たせなかった志。。お亡くなりになったとき、遥かなその地で信子さんがそのお父様の魂を受け止められたのは偶然ではないように思われます。涙止まらず、でも他のを全部拝見して涙が安堵の笑いに変わりました。1949年に建った谷根千のお住まい(その時はきっと戦後の歴史的建造物??)から偶然にも同じ時代に建てられたボストンのお宅に、とのこと。お宅の写真は本当にあの「ちいさいおうち」そっくり。静かな感動を有難うございました!
こちらこそ、お出かけくださってありがとうございました。父の事は、少し年月が経っても、相変わらずどうする事もできない想いに涙したりしています。そんなとき、娘と夫が戯れている姿を見ると、何ともいえない甘い思いに幸せな気持ちなるのです。これも、父がのこしてくれた「善きもの」かもしれませんね(笑)
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