朝ドラごときにむきになってバカみたい。と自分で思いながらも、ずっとイライラしていたことの原因がなんとなく、最終回を時計がわりに流してみていて自分でわかったような気がした。
この気持ちって「考えすぎ!」って一蹴されそうなたわごとだけど、でも、いろんな場で大事なような気がする。ちょっと自分の為にまとめてみたい。
このドラマは、本当になんでこうなるの? ありえないでしょ。。という人の心の動き、設定など多々ありすぎて、いまさら何も言う気もしない。
脚本、演出のあまりのひどさに出演してる俳優さん達が気の毒に思えてならないほどだったけれど、それが自分でもなんなのかよくわからなかった。
ただありえないことを描いてるイライラとも違う、もっと根本的に嫌悪感を持つような自分の気持ち。これってなんなのだろうと思っていたら、最終回の一つの設定をみていて、ああ、これだ。これが私は吐き気を感じるほど嫌だったのだと納得した思いだった。
それは主人公の娘さんが、幼い頃に小豆を届けてくれた人に対して、それを使ったお赤飯のおむすびでもてなすという設定。
幼い頃に自分を気にかけてくれた人に対しての感謝、そして、その小豆をお手玉に使って「保存」していたという、物がない時代にも母親が作ってくれた手作りのおもちゃという伏線を出したつもりなのだろうけれど、これはもう、根本的に馬鹿馬鹿しいシーンだ。
そして、これを描ける脚本家、演出家の生活体験の乏しさが本当に腹立たしい。
少しでも料理に関心がある人、幼い頃にどんぐりなど木ノ実を拾ったことがある人であれば、瞬間に、40年近くも虫にたべられなかったの??? っと、ツッコミたくなる。
このドラマが私に嫌悪感をもたらしていたのは、この生活感のない「軽さ」で「感動をあたえよう」などというおごりが、随所に散りばめられていたからだったのだとそのシーンを見たときに確信した。
いま手元に本がなく間違いがあっては恐縮だが、学生の頃に、ある対談を読んで感動したことがあった。
それは栄養学者の川島四郎博士と、漫画家のサトウサンペイ氏との対談。
多分「食べ物さんありがとう」に編纂されているのではないかと思う。
その一つの話題で、川島氏が何かの舞台を見に行ったときに、職業柄食事のシーンが気になったと演出家の方にお話したという一件だ。主人公の性格や仕事ぶり、主人公をとりまく家族の忙しさ、そんな要素を考えて献立はこんな感じだったのではないですか?と演出家の方に伝える。
すると演出家の方は、そうなんです。まさにそこなんです。わかってくださってうれしかったと川島氏に言ったという、そんな内容だった。
そんなことで何を感動してるの?と一笑に付されると思うけれど、若かった私は、これこそ、芸術を作る人、感じる人、そしてそれを活かしていくひとの姿がある話題だとそのとき感じたのだ。
客席から見えもしない御膳の献立にもこだわる、小さな御膳に大きな舞台の設定を凝縮させる。小さなことにこだわるからいい作品が作れる。そして、それを見極められる目を持つ観客がいるから、ますます良い作品が出来ていく。そんな流れが私を感動させたのだ。
私は日本を離れすぎてこの脚本家の他の作品に触れたこともないと思うけれど、この脚本家と、東京五輪のエンブレム問題で渦中にあったデザイナーとの共通点を感じる。
作品の良し悪しは別として、単純にものづくりへの真面目さを感じないのだ。
私たちの世代にありがちな、と言ったら、もうひと世代下だ!って悪友達からのツッコミがきこえそうだけど、なんというのだろう、情報を継ぎ足してわかったような気になっている生活体験のなさ。それでも世の中に「認められて来た」甘え、視聴者をバカにしたような傲慢さ。
それがこのドラマの中に常にみえて、そこが私が感じた嫌悪感だったのだろうと思う。
それでも、こんなことを書いたらまたこんな声が聞こえて来そう。
何熱くなってんの。たかがテレビドラマじゃない。予算だってあるんだよ。って。
まあ、そういうことなのかな。。。それにしても、こうやって受信料を払ってる身でこんな粗悪品を並べられるのは嫌だな。。。まあ、そこが正直な気持ちなのかしら?
もう、まさに「べっぴん」の対極にあるものだもの。
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