先日のChildren's Museum でお手玉を遊んで、
懐かしい歌を書き留めておきたくなりました。
大好きだった祖母から伝え聞いた歌です。
間違いがあったら、教えていただけたら幸いです。
一番はじめは一宮
二は日光の東照宮
三はさくらのそうごろう
四はまた信濃の善光寺
五つ出雲の大社
六つ村々天神さん
七つ成田の不動山
八つ大和の八幡さん
九つ高野の弘法さん
十でところの氏神さん
こんなに信心したけれど,なみちゃんの病気は治らない
六月六日のワラビ採り
タケオはなみ子の手をとって
なみちゃん危ないころぶなよ。
心配なさるなタケオさん
向こうでポッポとなる汽車は、タケオとなみ子の別れ汽車
二度と会えない汽車の窓
泣いて血を吐く ホトトギス
別れて血を吐く ホトトギス
一列らんぱん破裂して
日露戦争戦いに
さっさと逃げるはロシアの兵
死ぬまで尽くすは日本の兵
五万の兵を引き連れて
六人のこして皆殺し
7月8日の戦いに
ハルピンまでも攻め入って
クロパトキンの首を取り
東郷大将万々歳、乃木大将も万々歳
時代とはいえ、、、すごい歌で遊んでいたものですね。
五万の兵を引き連れて、六人残して皆殺し・・・というくだりは、いつも祖母は歌いたがりませんでした。
ある日、私が そこがぬけていると指摘して、こんな風に歌うのよと教えてくれたのです。幼い私にはショックが大きくて、だから今でも歌を覚えているのかもしれません。
丁度今の私ぐらいの年に、戦後の混乱期を生きた祖母。
軍服を着た、私は知らない親戚の若いお兄さんの写真は、確か祖母の弟だったと記憶しています。いつも穏やかだった祖母の中に、どれほどの悲しみがあったのでしょう。
そのくだりを歌いたがらなかった記憶とともに、誰に対しても優しかった、祖母の横顔を思い出しています。
3 件のコメント:
本当に凄い歌詞だね~お手玉歌。
日本もそういう時代があったんだなあって
改めて思いました。
時代とともに忘れ去られてはいけないわね。
匿名さん
コメントをありがとうございました。
私が小学校の低学年の時に、戦後30年ということで随分テレビなどでも特集がありました。
今、それから30年以上たって、幼い時には随分昔と思った戦争が、実は大人達には ちょっと前の身近な出来事だったのだと気がつきました。
そして戦後◯年なんていいいながら、自分自身は、まだ戦争を続けている国に住んでいるという現実に複雑な思いを持っています。
先日、兄に祖母の思い出とともに「’お手玉うた」の話しをしたら、こんな歌もあったよね。。。と、メールを送ってきました。
一かけ 二かけて 三かけて
四かけて 五かけて 橋をかけ
橋の欄干 手を腰に
はるか向こうを 眺むれば
十七八の ねえさんが
片手に花持ち 線香持ち
ねえさんねえさん どこ行くの
私は九州 鹿児島の
西郷隆盛 娘です
明治十年 三月に
切腹なさった 父上の
お墓参りを 致します
お墓の前から(注) 手を合わせ
南無阿弥陀仏と 拝みます
くわいが芽を出いて 花ちゃんが開いて
ハサミでちょん切って えっさっさ
そうそう、そういえば叔母が歌ってた。
忙しかった両親に代わって、母親代わりのようだった叔母。。。
叔母に早速メールしたら、よく覚えているねえ...って嬉しそうに笑っていました。
いっしょに住んでる姫と同じ年のお孫ちゃんに歌ってあげたら「何それ??』って笑われるそうです(大笑)
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